2019年12月1日日曜日

断想: これもジェネレーション・ギャップ

18世紀から19世紀への移り目においてヨーロッパの時代の区切りになるのはフランス革命だろう。「フランス革命」という言葉には曖昧性が残るので、これを「ナポレオン戦争」と言いかえると意味が明確になる。

近代欧州において「ナポレオン戦争」を知っているか、知らないかは最大のジェネレーション・ギャップではなかったかと想像する。

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モーツアルトはナポレオン戦争を知らずに死んだ。

ベートーベンはナポレオン戦争の始まりから終わりまでを経験した。

この違いは大きい。

ハイドンは長生きをしてからフランス軍が占領したウィーンで死んだ。

ベートーベンの後は第一次大戦までほぼ一つにつながっている。なので、最近もあった「モーツアルト・ブーム」には実のところ不思議を感じたりする。

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昨晩、元の勤務先の同僚であり大学の後輩でもある幾人かが出席する夕食会に招かれた。談論風発。カミさんも参加したが、大学で仕事をしている人はとにかく自己主張が強い、話し始めると長い、まとまりかけてきた結論をひっくり返すような意見が最後に必ず出てくるなど、今更ながらも呆れてしまったよし。『だからマンション管理組合の総会には出席したくないんだよ、合意されかかっていることにイチャモンをつけたくなる気持ちに逆らえないんだよね』と、関係のない言い訳をする。

『今の学生はやっぱり幼稚化してますよ。よく勉強のできる真面目な女子学生が多いんだけど、ワタシ、答えのない問題を議論するのが好きなんですよ。すると、正解はないんだと知った途端にヤル気がなくなるみたいで……』 
『正解がないんだと知った途端にテンション、下がるんでしょ www その心理分かる気もしますヨ。必ずある正解を出すことが面白い、宝探しに似た心理なんでしょう。そんな風に勉強してきたんだと思いますヨ。』 
『クイズと勉強をごっちゃにしているのネ』
先日の投稿でも述べたが、数学には文字通りの「正解」があるが、自然科学に場を移した途端に「正解」であるのかどうかはハッキリしなくなる。ニュートンの万有引力の法則は宇宙という広大な空間や素粒子という微細な世界では厳密に成り立たなくなる。宇宙規模の計算になると相対性理論を活用しないと誤差が大きくなる。しかし、その相対論は素粒子の振舞いを理論化した量子力学と合致しているわけではない。話が経済現象や社会現象になると、どの問題にも正解らしい正解を与えることはほぼ不可能になるのだ。

正解がない領域で問題に取り組むとしても何か結論を引き出す必要がある。しかし、データとロジックでは答えが決まらないので、何かの価値観なり信条に立脚するしかない。先日の投稿では『何が正解かルールを決めてしまえばよい』と書いておいた。つまり法律なり規則なり手続きである。経済学が幾つかの派閥に分かれているのは何が正解か定まらないからだ。 政治学もそうだろう。

『経済学では何らかの価値観によらなければならない問題は回避してきた、それで純粋の社会科学としての体裁を保ってきたという歴史があるんです。』 
『あなたは価値観に基づく経済学を支持する立場ですか、価値観とは関係のない理論を受容する立場ですか?』 
『私はネ、統計専門家ですから ww、 必ず正解がある問題と取り組んできました。正解のない問題と取り組むと、結論をどう下すにせよ、必然的にどこかの「派閥」に属することになる。そういうことは私は好きではないんですよ。

小生が経済学を勉強した時代は「価値自由」というキーワードが重視されていて、分析の結果は客観性のあるものだと理解されていた。「パレート最適」という最適概念には一切の価値観が含まれていない。純粋な厚生概念であると。そう説明されていた。パレート最適である資源配分の中のどの状態を社会が選択するかは、何を善しとするかという価値観が必要であるから、そんな問題は扱わないのだ、と。

21世紀という時代は「科学としての経済学」を許さなくなるのかもしれない。誰かが損をし、誰かが得をするという問題にも何かの結論を出さねばならない。「社会科学」にもその役割を期待されている。

しかし、誰が損をし、誰が得をするかを決める仕事は「科学者」の仕事ではないと小生は考える。これまたジェネレーション・ギャップかもしれない。

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