2021年11月8日月曜日

ホンノ一言の断想: 「憲法改正」が望ましいのは勿論だが、もはや実行困難だろう

総選挙で護憲派リベラルが退潮した流れで予想すれば、今後は憲法改正論議が本格的に盛んになってきそうである。コロナ禍、というかパンデミックにおける緊急事態対応のこともあるから猶更だ。

しかし、実際には憲法改正案を国会で発議することすら、もやは集約は困難であると感じるし、ましてやその発議を経て国民投票にかけるとしても、それで日本人全体で了解されるような憲法改正を行うということは、それまでに必要な国内政治的エネルギーの巨大さを想像すると、ここ日本においてはもはや不可能に近いのではないかと感じる。

そもそも何十年も前に起案した成文憲法の文言などは、長い時間がたてば現実に即応しなくなることは当たり前であって、個別的に非現実的になった条項から適当な時期に改正を加えるというのは当たり前の立法努力である。憲法を時代の荒波の中で鍛える作業を怠るような立法府はそれだけで立法府失格だと思われる。なるほど民定憲法で主権は国民にある。だからと言って、国民(の中の誰なのか分からないが)自らが現行憲法の第△△条は現実とマッチしなくなったと判断し、具体的な修正案について世論を自発的に形成する状況というのは、本当にこんな社会状況がやって来るのかどうか怪しいし、それが善いこととも(小生には)思えない ― マ、本当にこんなことが起こりうるなら、日本人の自己革新能力も大したものだが。現実的には、国民の代表である立法府において、憲法と現実との乖離について常に注意を払い、必要なら議論を実行へと進めるのが、望ましい方法だろう。

実際、欧米では第2次大戦後に限っても頻繁に憲法改正が行われてきた。国会図書館が2014年に編集したある資料によれば以下のようになっている:

1945 年の第二次世界大戦終結から 2014 年 3 月に至るまで、アメリカは 6 回、カナダは 1867 年憲法法が 17 回、1982 年憲法法が 2 回、フランスは 27 回(新憲法制定を含む。)、ドイツは 59 回、イタリアは 15 回、オーストラリアは 5回、中国は 9 回(新憲法制定を含む。)、韓国は 9 回(新憲法制定を含む。)の憲法改正をそれぞれ行った。 

諸外国では適宜行われてきた改憲が日本では一度も行われて来なかったわけである。この違いは結構本質的な何かを伝えているのだと思う。 

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日本で憲法を改正することが実際に出来るのか?頭を冷やしてよく熟考して見れば誰でもすぐに分かることだ。

日本では、財政経済上の政策ツールに過ぎない「消費税率」一つをとっても、上げる議論をスタートさせてから実際に上げるまでに数年はかかるお国柄である。一度上げた税率を経済状況の変化に対応して下げるという決定も、状況によっては十分高い確率でありうるはずなのだが、これが日本では極めて難しい。いまコロナ禍による混乱が終盤にさしかかっているが、これまでにも消費税率を下げるということが真剣に検討されてきたかといえば、おそらく検討などはされなかったのではないか。それは一度下げれば、再び上げるのが、日本では極めて困難なためである。

憲法改正は、単なる消費税率変更をはるかに上回る本質的な変更である。これだけでも改憲が実行困難であることは分かる。

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しかし、何かの国際環境上の激変、経済状況上の激変、国民意識の大きな変化などが契機となって、いよいよ憲法を改正しようという機運になってきたとする。

しかし、それでも現行憲法のどの部分を修正するのか?

多分、憲法9条や緊急事態対応ばかりではすまない。最近の進展をみれば、第1章の天皇の地位についても何らかの文言変更が望ましいという議論があるかもしれない。そもそも第1章に天皇を規定していること自体、その前身である大日本帝国憲法の余光であることは確実で、事後的な結果はどうであれ日本は《国体護持》を最小限の大前提としてポツダム宣言を受け入れたのである。

ほかにも地方自治、基本的人権の具体的表現、第25条の生存権をどう表現するか、財政均衡と納税の義務との関係などまで含めれば、改憲にあたって要検討箇所は余りにも多い。多いというより、増え過ぎた感がある。「改憲」という作業に乗る話しなのだろうか?

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これらを一挙に憲法改正案として発議し、国民投票にかけるのは、個人的な山勘に過ぎないが、国内政治的にはきわめてまずいと思われる。

どんな改憲に際しても論点を明確にするべきだと思う。

かといって、問題点は増え過ぎた。これを何段階にも分けて、憲法改正案を逐次進めるという方式は、憲法の権威を考えると、とるべき道ではないだろう。

どうなっていくか、先の読めない憲法というのは、もやは憲法の名に値しないだろう。


つまり、もうこの日本において日本国憲法を改正するというのは、作業としては行えるし、議論もできるのだが、実際行うとなれば余りにも問題が膨らみすぎ、改憲案を結論として得るのは不可能に近くなっていると小生は思う。

要するに、日本はこれまでに行うべき憲法の修正を(どういう理由でか)国民感情として避けてきたが故に、もやは修正を行うことが極めて困難な状態に陥ってしまった。修正をしたくとも、どことどこを、どんな順序で、どんな風に修正すればよいのかが、整理できない。そんな状態に進んでいるのではないか、と。

政治学的にこれと似た状態に陥った国がかつてあったかどうかは知らないが、こういうことじゃないかと現状を理解している。こうした意味でも、日本が歩んだ《戦後76年》という歴史は《ほかに選択肢のない一本道》であった。「であった」というよりは、日本人全体が「一本道であると思い込んで歩いて来た」、長くもない戦後史をいまこんな風にみているところだ。

「一本道であると思い込んでいた」という点では、アメリカを相手に開戦した太平洋戦争直前の時点における日本人も、やはりそうであったのではないだろうかと思ったりする昨今である。

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