2021年11月22日月曜日

断想: 「老い」については誰も分かっていない、というのが真相だろう

「年齢による知識増大」というと経験主義ということになるか。が、言いたいことはそうではない。「知識」というと汎化可能情報のようでもあるが、そうではなくあくまでも個々人限りの主観的な理解ではあるが、たしかに「分かる」という意味では「知識」には違いないもののことだ。そんな知識は確かにあると思う。

それは例えば「60歳になったときの自分は30歳の時には全く分からなかった」、「それが実際に60歳になってみて初めて分かった」、「60歳の母が考えていたことが初めてピンときた」というような知識のことだ。もともと分からないのは周囲の他人の思惑なのだが、実は自分の事さえも分からないのが人間だと思っている。小生の場合はもっと迂闊で、30年前どころか10年前の自分でさえ今日の自分の価値観や、やりたいこと、考えていることなど、事前には何も想像できなかった。

現役世代が現役世代の目で引退世代について考えても、制度や形式はともかくとして、本質的には無理解のままであろう。

多くの人が賛成する(かもしれない)ことは、

老人は若い人を理解できなくとも邪魔はしないことだ

若い世代は、前の世代がそうであったように、現在の経済環境、生活環境の下で理にかなった最適化行動をとっている。その選択を正当化する理念や哲学を選ぶはずである。それは前の世代の選択とは異なるのが当たり前である。

理解できないのは、本当に理解できないわけではない。自分たちも前の世代に反抗して新しいやり方を押し通してきたのである。老人は若い時分の記憶があるので、若い頃にどんなことを願望したり、考えたりするかは、結構分かっている。いつの時代にも色々な人間はいたのだから。

反対に、

若い人は老人を理解できない。老人を理解できるのは老人のみである。

こちらの方が正しい。 若いうちはまだ齢を重ねていないのだから、真の意味で「老い」を理解できる理屈はない。

子は親が自分を理解していないという。これは十分に正確ではない。親は「子供」については理解している。子供であった時の感情を親は記憶しているものだ。幼い頃の心理構造は人類が人類である限り、そう大きくは変わらないはずだ ― でなければ、そもそも発達心理学などという学問分野が成立しなくなる。ただ<子供≠我が子>という一般対個別の話しがあるだけだ。反対に、子が親をどの程度理解しているかといえば、十分に成長するまでは理解できるはずがない。理解できていると思うのは、共感したり、想像できる、ということに過ぎない。

夏目漱石は49歳で亡くなった。だから、70歳になったときの自らの心境は想像するだけであった。その想像は想像でしかない。実際、『道草』には漱石の分身である主人公・健三の養父・島田がずいぶん齢をとった姿で出てくる。が、この作品を読んだ人なら感じると思うが、島田という人間を漱石はリアルに描写してはいない。ただ憐れをさそうばかりである。島田の先妻・御常も同じだ。漱石が描く老齢者が明確なイメージをもって記憶に残らないのは、書いた漱石が40代であり、老齢者の心がよくは分からなかったからだろう ― そもそも40代の人に年老いたときの心境が分かるはずはないのである。

バルザック『ゴリオ爺さん』もほぼ同じである。この作品はバルザック36歳の年に公表されている。読めばすぐに分かることだが、若いラスティニャックや怪人物ヴォートランがそこにいるかのような存在感をもって伝わってくる一方で、肝心のペール・ゴリオの人となりは齢をとった人物という以外、人間としての中身、充実感は希薄で、つくりが薄口である。これは「老い」という現象を若いバルザックが想像して書いているためである。よく分からないことにリアリティを与えることは天才であっても難しい。

村上春樹の作品に存在の厚みをもった老齢者は一人も登場していない(と思っている)。Kazuo Ishiguroの『日の名残り』にも『浮世の画家』にも初老の男性(と、昔の恋人である初老の女性)が出てくるが、いずれも「齢をとったらこんなことをするのだろうなあ・・・」と、比較的若い作家が老いた時の自分に想像される行動を語っているわけである。しかし、実際に人がそんな年齢になったときに若い時に想像していたような行動をとるかといえば、実際にはそんな気はもうなくなっている・・・。こんな確認を何度経験してきただろう。

「老い」という現象、「老人」という存在の実相がそのまま表現された文学作品は、実際に老齢になった作家でなければ書けないものである。が、しかし、実際に老齢になってから力作を書き続けた作家は稀である。永井荷風は死ぬ前日まで日記を書き続けたが、あくまでも日記であって、それも毎日毎日くりかえして

晴。正午大黒屋食事。

この短い言葉だけを単純にくりかえす日記であった。時に「晴」が「陰」になり、「大黒屋」と書く少し前までは「浅草」と書いていたが、傾向としては同じである。このことから、老人の心を読み取るというのは、直観としては様々読めるわけだが、無理というものである。


今日は核心を避けて、周囲を回りながら、書けることをまとめておいた。


書いた後、明日は月参りだから、お供えの花と菓子がいるので買い物に行くとカミさんが言うので、荷物持ちで一緒に外出した。途中、昨日まであった道の真ん中の穴が補修されているのに気が付いた。

カミさん: 綺麗になったね。大きな穴だったから・・・

小生: きのうまであった道の穴はどこにいったんだろう? それをみていた僕はどこにいったんだろう? 僕はいま穴が埋められたあとをみている。あのときの僕はどこにいったんだろう? って、こんな文句の詩があったなあ・・・誰のだったか忘れたけど。

カミさん: ふ~~ん

何だか感じる所があった様子だった。若い頃にはピンと来なかったのではないかネエ、そんな風に思った。




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