日本経済新聞WEB版では英誌The Economistからメインイシューを抜粋して日本語訳で掲載しているのだが、最近、気になったものを覚え書きまでに残しておきたい。少し長いが抜粋で引用する:
単一通貨ユーロ、国境審査なしで欧州連合(EU)域内を行き来できるシェンゲン協定、EUの"国歌"となったベートーベンの「歓喜の歌」、バターの山を生んだEUの農業政策、EU創設を定めたマーストリヒト条約。これらが登場する前から欧州を結びつけてきたのは原子力だ。
EUではフランスを中心に原発を推進する動きが復活、ドイツもその流れは変えられそうにないという(フランス西部シボーで稼働する原発)=ロイター
コニャックの営業マンから政治家に転身し、EU創設の父となったジャン・モネは「原子力の平和利用は欧州統合の原動力になるだろう」と書き記した。欧州統合は、何よりもまず原子力を推進するためのプロジェクトだった。
1957年、欧州6カ国はEUの前身、欧州経済共同体(EEC)を設立するためのローマ条約に調印した。同時にこの条約によって、あまり知られていない各国の原子力発電セクターを監督する組織「欧州原子力共同体(ユーラトム)」も創設した。当時、共通市場という構想はまだ漠然としていたが、原子力エネルギーが持つ可能性は明らかだった。
(中略)
EUが原発を「環境に優しい」とすれば補助金の対象に
EUでは今、天然ガスの火力発電を巡っても原発と似た議論が起きている。ガスの火力発電を支持する向きは、CO2を発生させても石炭火力よりクリーンだと主張する。だが原発は賛成でもガスの火力発電には反対という加盟国もあれば、その逆の国も、両方に反対する国も、両方を必要とする国もある。
本来、原発とガスの火力発電は別問題だ。だが各国政府と最終承認を下す欧州議会の議員らの頭の中では、この2つは深く結びついている。様々なグループの利害が複雑に絡み合うため、到達する妥協案は誰にとっても満足のいくものにはならないだろう。
原発を巡る政治や天然ガスを巡る政治が絡み合う以上、政策はその影響を受ける。同じように激しい論争を巻き起こしている歳出を巡る規制改革に関する議論をみるといい。現状では、日常的な支出については厳格なルールを維持する一方で、低炭素社会への移行を目的とした支出については、各国に柔軟な対応を認めるという妥協案に至る可能性が高い。
その場合、EUとして民間部門の原発を環境に優しいと位置づけると、原発への補助金等の財政出動も認めざるをえなくなる。そうなるとドイツの有権者は、ライン川を挟んだ隣国フランスが自分たちが危険だと考える原発に多額の資金を投じるのを傍観するしかなくなる可能性がある。
EUのあらゆる機関は政治と無関係ではいられない。原発がクリーンか否かを最初に判断する欧州委員会は建前上、専門家としての立場から問題に答える公務員集団だ。だが、委員たちは現実には原発が極めて政治的テーマであることを知っている。
そのため彼らは、ドイツで強硬な反原発である緑の党を含む新連立政権が発足する前に解答を出しておいた方がよいとも認識している。メルケル首相が退任する前に何らかの妥協案をみつけられれば、それは彼女のさらなる功績となるし、連立政権の一翼を担うことになる緑の党も、前政権が決めた既成事実だからもはや自分たちは何もできないと責任を負わなくてよくなる。選択肢の中から最もひどくないものを選ぶのが官僚であり政治家だ。中世の政治思想家でフィレンツェ共和国の公務員でもあったマキャベリもそうだった。
今後EUは原発を一体となって推進
原子力政策は、問題がエネルギー確保だろうが環境保護、または経済であろうがEUが運命共同体であることを再認識させる。最もクリーンなエネルギーしか使っていないと胸を張る加盟国も、域内エネルギー市場の統合が進めば、議論を呼ぶエネルギーに依存せざるを得ない国から恩恵を受けることになる。
EUという巨大組織はますます均質化し、独自路線を歩みたい加盟国にとって、その余地は減りつつある。集団で下した決定である以上、加盟国はそれに縛られる。
モネは「加盟各国がバラバラに原子力政策を追求すれば混乱を招くことになる」と書いた。EUの原子力政策は反対する国があっても一体となって進めていくことになるということだ。
Source:日本経済新聞、2021年11月2日 0:00
Original: The Economist Newspaper Limited. October 30, 2021 All rights reserved.
URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB310JX0R31C21A0000000/
コロナ禍に対する対応でも、EUはジグザグ状態を続けるにしても政府は本気で政策を実行し、反対する住民は本気で反対デモを展開した。どちらも当事者としての自分自身の意志を行動に表していた。
日本では、政府も国民もマスメディアも、簡単にいえば<言いっぱなし>、<口先>だけの側面が結構あった模様で、この「模様」という言葉が日本社会を理解する結構大事なキーワードでもあるようで、全体としては真面目な日本人が、この一年余り、自分に出来る理にかなった行動を自らとっていた、と。それで、結果としては、望ましい状況にいま到達している。どうもそんな印象なのである。砂粒のような一人一人の日本人のローカルな合理性が集積されて、日本社会の最適性を実現した、とまあこんな風に理解しているのだ、な。この辺が、どこかヨーロッパともアメリカ、というか中国とも韓国ともロシア等々とも違っている。
自分から言うのも変だが
ほんと、日本という国は不思議な意思決定をする国だ
私的合理性と集団合理性とが矛盾しない状況下では、ほんとうに日本人の<強み>というのが十全に発揮される。
ただ、《原発をどうする》という極めて根源的なイシューについては、何となくの「国民の風」では現状維持が続くばかりである。
ほんと、どうするつもりなんだろうね?
そう感じられる課題の一つが、日本のエネルギー計画だろう。
そもそも日本全体で電力が足らないと心配している状況で、カーボンフリーとか、ガソリンを積んだHVでもPHVでもなく、電気だけで走るEVを増やしていくなど、大体が無理な相談だろうと思うが、議論する時間は残されているのだろうか?
ドイツは綺麗ごとを言っているが、いざとなればフランスから原発エネルギーを安価に輸入する裏口ルートを確保したうえで言っているわけである。日本で同じことをやるなら、中国を含めた東アジアで例えば「エネルギー取引機構」(?)なる仕掛けを構築し、そのためのインフラも整備しなければ、日本の国内産業は心配で仕方がないと予想されるが、そんな方向が水面下で進んでいるなど、まったく聞いたことがない。産業が破綻すれば、日本人は大量に失業するはずで、その日の飯にも困るわけである。
先の見えない不透明な社会状況を生き抜くことにかけては大陸欧州は実にタフである。歴史を通して豊富な経験がある。政府が集団合理性の観点にたって個人の自由を押さえることも辞さない覚悟がある。それでもヨーロッパは民主主義なのである。反対に、日本の民主主義は輸入文化である。なので、建て前や形式にこだわる。手本にできるだけ忠実であろうと欲するのは、日本人が基礎理論に厳格だからというより、自信がないためである。不透明なワインディングロードを霧の中で走るような時代では、個々人の私的合理性と社会全体の集団合理性が矛盾する状態が多々発生する。そんなとき、日本は諸外国の行動を目で見て付いていく風な意思決定しかできなくなる。これではいわゆる「負け組」になるのは必然であろう。
ほんと、どうなるのだろうね?
日本人は、いつ本気になるのだろうね?
こんな思いにかられる今日この頃であります。
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