2021年11月16日火曜日

ホンノ一言: COP26だが、これが正論だと思える

 Wall Street Journal(日本語版)も伝えているように、

英グラスゴーで開かれていた第26回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)は、ほとんど成果のないまま13日に閉幕した。

最終盤ぎりぎりのタイミングになって、インド(と中国)の異論が入り、石炭火力の「段階的廃止」ですら「段階的削減」にトーンダウンされたのだから、「ほとんど成果なし」と評されるのは当たり前で、ジョンソン英首相のように「石炭火力廃止へ第一歩を踏み出した」と表現するのは、ほとんどフェイクであると思う。 

とはいえ、小生にはWSJ紙の以下の認識がリアリティをより正確に理解した正論だと思われる。

気候対策のエリートたちは、経済のより多くの分野を自分たちの政治的コントロール下に誘導することによってのみ、気候変動による災害は回避可能だと人々に信じさせようとしている。そして、「グリーンのネバーランド(おとぎ話の世界)」に向けて飛び出すにあたり、人々はエネルギー費用の上昇とエネルギー不足というコストを支払うことになる。この選択肢が率直に提示されれば、欧米の有権者は必ず「ノー」と言うだろう。

 だからこそ、欧米の気候対策推進派は資金配分と化石燃料生産者の圧迫のために金融規制という密かな強制措置を使いたがるのだ。これは一部に弊害をもたらすだけで、世界の気温に影響を及ぼすことは全くないだろう。

 さらに言えば、グラスゴーの会議で起きた他のことも影響を及ぼすことはないだろう。重要なのは、新たな技術の研究、気候変動の不確実な影響への対応策の採用、そして不確実な未来にうまく対応するために世界がより豊かに成長するかどうかである。

Source: Wall Street Journal,  By The Editorial Board ,2021 年 11 月 15 日 13:34 JST

URL: https://jp.wsj.com/articles/glasgows-climate-of-unreality-11636948774?mod=hp_opin_pos_2


環境問題、気候問題は既に科学の次元を超えてしまっている。産業構造を政治的権力を通して転換させようとする勢力とその勢力に敵対する勢力との覇権闘争になっている。

外観は政策論争、中身は覇権闘争であるという点では、現在の気候問題、環境問題は、19世紀初めのイギリスで「穀物法」をめぐる一大論争となった「自由貿易 vs 保護貿易」論争を連想させる。

当時のイギリスでは、自由貿易論が保護貿易論を押さえ、社会の覇権は大地主から工場経営者へとシフトしていき、19世紀のPax Britanicaを築くうえでの分岐点ともなったのだが、そもそも経済理論に忠実に考えれば、産業構造の転換、資源配分の最適化は、国際会議や国会の議決など政治権力の介入によってではなく、市場メカニズムと価格が果たす役割を基本にして進める方が得策である、というのが一般的な結論である。それは昔も今も(基本的には)同じである。

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具体的に「市場の失敗」が確認されていないなら、市場の失敗よりは「政府の失敗」をより恐れるべきであろう。政府の失敗というより「政治の失敗」と書く方がもっと適切だ。有害な開業規制や許認可、価格統制がないかどうか? 更に、市場の機能を阻害する独占的支配力、寡占企業による優越的地位の濫用がないかどうか? 独占禁止行政は適切に展開されているか? これらの検証の方が目的達成にはずっと近道である。要するに、公的に認められた《既得権益》が将来性豊かな経済活動の障害になっていないかどうか、ここを先に検証することの重要性が非常に高い、ということだ。

というより、

《既得権益》が将来性豊かな経済活動の障害になっていないかどうか

というこの点の判断自体が多分野の専門家の意見が対立する中では難しい。故に、まずは自由な参入・撤退を保証したうえで、発生する問題の解決に政治は専念する方がよい。つまり、既得権益を守っている規制を撤廃することの重要性は、いつの時代でも意義のあることで、まず第一に(というか、むしろ、常に)検討しなければならないことだ。 環境とエネルギー分野でもこの原則を通すほうがよい。

エネルギー市場に関連した現在の「気候変動論争」は、19世紀の「穀物法論争」のような「自由vs規制」の戦いというより、「従来の規制vs新しい規制」の戦いといえる。規制をどうするかの戦い、つまり既得権益層をひっくり返して新たな既得権益を狙う勢力が挑戦しているわけであって、その新勢力の根拠が気候変動予測理論という構造になっている。科学が政治にリンクしている点は、まさに原水爆を開発した物理学の進展の歴史とウリ二つではないか。

「気候変動枠組み条約」というのはこの辺が極めてウサン臭い、といえるわけだ。

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さて、

市場が失敗するケースというのは、一般理論として、もう整理され切っていることで判断は容易である。それより、ずっと昔に導入された規制、その規制に基づく既得権益が、いまでも公益に沿っているのか否かのほうが、よほど難しい判断なのである。だから、一定期間が過ぎれば、規制は自動的に撤廃される、すべての規制を時限的なものにする、こんなサンセット方式こそ本当は望ましい。

9電力会社(沖縄を含めれば10電力会社)の地域独占も見直さなければならないし、電力価格の設定も見直さなければなるまい。もちろん原発経営の在り方も見直しが必要だ。再エネ電力の固定価格買い取り制度も当然ながら見直さなければならない。《規制》は必ず見直すというルールにしておけば既得権益の拡大も予防できるわけだ。

《気候変動とエネルギー》の将来構想などは、やるべきことをやったその後の議論であろう。


どれほど人々の理念や価値観に合致するように見えても、「計画経済」は必ず非効率の温床となり、最初に目指していた目的を達成するうえにおいてすら、「市場経済」に劣後することは、すでにソ連の壮大な失敗から学んだ教訓だろう。というより、一般的命題が確認済みであるとみるのが正しい。単なる言葉は「踊る言葉」に過ぎず、舞台俳優にふさわしい芸事であるわけで、言葉が力をもつためには現実に問題を解決できるだけの中身をもっていなければならない。

$\textrm{CO}_2$排出については、The New York Times紙の以下の記事も参考になる―ほかにも同紙には関連記事が多く掲載されている。

● Who Has The Most Historical Responsibility for Climate Change?


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