検索欄に《相続税》と入れてブログ内検索をかけると、意外に多くの投稿が網にかかってくる。これらを概観して分かるのは、小生がかなり強烈な「相続税100パーセント」論者であることだ ― 配偶者への遺贈分は100%と異なる例外措置があってもよいが。
例えば、昭和40年代後半に急拡大した日本の「社会保障」の結果として各世代の生涯収支に生じたアンバランスだが、恩恵を享受した旧世代が100%相続税でもって後世代からの借りを清算するのが道理であろうと、何度か書いていたりする。
さはさりながら、
相続税と直接の関連はないのだが
才ある息子は世に用いられるが故に遠く旅立ち
才なき息子は世に無用の人であるが故に親元にとどまり孝を為す
こんな文句を実感したりしているのも事実である。
実際、下の愚息夫婦は首都圏で充実した(?)職業生活を送っている。他方、上の愚息はもう10年ほども同一の職場ではあるが非正規就業者として、貧ではないもののギリギリの暮らしを続けている。人並みの教育投資は行ったので現状は概ね本人の選択だ。しかし、家計収支均等のためには宅に定期的に届く(例えば)株主優待券を譲ってやるなどが必要だ。100パーセントの相続税の下では、上の愚息は最終的に親の支援を失うことになる。
この予想が小生にとって悲しく感じるのは「情」のためである。自分で作った資産をどう処分するかは資産をつくった本人に権利があるはずだと考えたのは新自由主義者ハイエクであった。「兄弟で差が出ないように」と考える時、小生は相続税に関して新自由主義の立場に近くなる。
新自由主義は、政府権力の介入を嫌悪し、独立と自由を尊ぶ。これは必ずしも「強者の論理」と決めつけることもできない。社会主義は理想を追求するための強い公権力を受け入れる。公地公民はその究極的姿である。これまた「弱者の論理」であるとは限らないわけだ。故に、両者は対立している。
親の貧困が子の貧困を招く不平等は社会的不正義の最たるものの一つだ。この認識は道理だと思うし解決が必要だ。それはそうなのだが、何度も書いているように《社会》や《国家》は人間が設計した擬制的なものである。これに対して、血縁集団は生物的な単位として自然の中に実存する。擬制である「社会」を実存する「家族」より優先するのは文字通り不自然である。こう考える時、実は《情》によって考えている。
自分自身の相続に関する限りは新自由主義的な情により、他人の資産については道理に従って相続税100%を支持する。理から離れるのはバカの証拠だ。情を無視するのは人デナシだ。二つが混在するのは矛盾である。だとすると、世論がバカであったり、冷酷になったり、矛盾に満ちているのは当たり前である。
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