2021年11月4日木曜日

断想: 韓流ドラマから「違い」の理解について考える

日本でも「医療ドラマ」といえば高視聴率が期待できるテーマだ。『ドクターX』や『医龍』、Dr.コトー診療所』、『JIN-仁-』は傑作だと思うし、小生は視ていないが『コードブルー』も品質はかなり高いのだろう。それに『白い巨塔』は医療モノを超える古典として言葉自体が常套句になってしまった。

いま、カミさんがいきつけの美容師サンに教わったというので、韓流ドラマ『浪漫ドクター キム・サブ』を観ている。既にシリーズ1を見終わって、シリーズ2の中盤にさしかかっているところだ。


確かに面白い。そして、その面白さはやはり韓流ドラマに共通した面白さである。具体的にいえば、味付けが濃厚である。つまり「濃い味」で、かつ極端だ。日本の作品は韓流に比べると、ある意味「薄味」である。薄味好みの映画好きの日本人がみると、韓国の作品は「ムツコイ」と感じるかもしれない。その違いは、料理の世界と共通した違いかもしれない。

ドラマは言葉と映像が素材であるが、味付けが濃いと感じる一つのポイントとしては、言葉使い(といっても字幕を通した印象なのだが)がある。ハッキリ言えるのは、韓流の作品は人間同士の会話が率直である。というより、言い方がきつい。つかう言葉がストレートである度合いはアメリカ映画以上かもしれない。日本人のシナリオライターなら、ずっと間接的で、婉曲かつ繊細、時に「腹芸」も織り込んで会話を進めるだろう。だから、日本流の物言いを好む人が韓流の作品をみると、登場人物がいつも喧嘩をしていると感じるだろう。言葉ばかりではない。その人その人の違いはあるが、概して韓流ドラマの登場人物は表情の変化が豊かである。それに対して、日本のドラマ作品では、むしろ抑えた表情で心を伝える場面に視る人は共感することが多い — ただし、この辺はごく最近では日韓の違いが小さくなっているかもしれない。また、韓流では舌打ちをする頻度も多いが、日本の作品ではその種のボディ・ランゲッジは好まれないようだ。声をあげて相手を罵倒するシーンは韓流ならではだが、日本人なら逆に声をおさえて怒りを表現するのではないか。さらに映像、というかドラマを絵として観た場合も、韓流の作品は動きが激しくダイナミックであるのに対して、日本の作品は動きを最小限に排した静的で構図に凝った絵作りが多いように感じる。他にも違いをあげることは楽しい作業に違いない。

これらを総合した結果として、韓流ファンは『日本の作品よりコクも迫力もある』と感じるのだろうし、アンチ韓流は『品がないし、全体のつくりがドギツイ』と辟易するのだろう。

このような感覚の違いは、よく言えば美的感覚の違いにもつながるものだが、身の回りでいえば味覚の違い、香りの好みの違いに似ている違いである。


日本人の感覚で韓国に向かって、

こんな言われ方はないし、一方的で感情的、言い放題で言いがかりというものだし、そもそも怒鳴られるほどのことか

などと怒るべきではないし、反対に韓国人から日本に向かって

考えている事と話す言葉がいつも食い違うし、そもそも何を言いたいか分からんし、というかチャンと言わないし、何かをいつも隠している感じがする

などと悪感情を持つとすれば、それは感性の違いのなせる印象にすぎない。


日本国内でも、関東と関西の違い、県民性の違いは歴然としてある(と言われている)。小生も元々の育ちは関西、というか関西文化圏の四国であるが、東国・伊豆に転居したときは、食べなれた魚がない、サンマは口に合わん、味付けが違う、醤油がから過ぎる、味噌が辛過ぎる、言葉が早口で乱暴だ等々、両親が何度も何度も話していたことを覚えている。育った地域による県民性の違いは、どちらが正しいかを議論しても、否定には否定で応じるだけのことであって、まったく不毛に終わる。

個性の違いは、当然、あるものだ

と思って、あとは現実のあり方に順応していくことだけが、とりうる途だろう。これが《理解する》という行為だ。

問題解決の前には必ず「理解」があり、戦争の前段階には必ず「無理解」がある。感性も大事だが、世間を円満に運営するには理解力がはるかに重要だ。


この「理解力」が、日本国内でも最近は衰えてきた、というか「善いこと」として評価されづらくなってきている。同じ日本人が他の日本人のことを理解しようという熱意、というか誠意が、どの程度まであるのだろうか、と。そう疑うことが近年とみに増えてきた。

理解なんてことを強要されず、自由であるのが、すなわち多様化である

こんな風に<理解>されるとしたら、「個人の尊重」などという綺麗ごとにはならず、むしろ予想されるのは「見解の相違」が「断絶」となり、さらには「対立・闘争・解体」となり、弱肉強食の「自然状態」に社会が原点回帰していくのは、まず間違いないところだと思っている。

市場ディシプリンにせよ、競争メカニズムにせよ、市場価格へのリスペクトにせよ、原理主義的に上から下へ自由主義を押し付ける前に、なぜそのシステムがよいのかという点について、参加者、つまり国民がよく理解しておくことは不可欠の大前提である。ごく平均的な視聴者を想定しているTV番組やメディア報道の伝え振りをみているとそう感じる。

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