2021年11月2日火曜日

ホンノ一言: 日本の「お家芸」である「周回遅れ」は日本のリベラル勢力も同じだろう

選挙はやってみないと分からない。故に、政界の一寸先は闇ということなのだろう ― 一寸先が闇であるのは、政界ばかりではなく、ビジネスもそうであるし、日常生活もそうだし、そもそも人生自体が一寸先は闇なのだが。

自民党は議席を減らしたにもかかわらず、負けではなかったと安堵している様子である。逆に、立憲民主党は共産党と連携した野党一本化が功を奏して、自民党の現職幹事長を小選挙区で降すほどの成果をあげたにも拘わらず、敗北感に襲われているようだ。小選挙区では手ごたえがあったが、比例代表で大きく議席を奪われ、結果として党全体の勢力が減ってしまったからである。要するに、比例代表投票で「立憲民主党」と書く有権者が減ってしまったということだ。

そればかりではない。立憲民主党の議席が全体として減る中で、共産党の支援を受けて当選した小選挙区選出議員が党内で増えるという結果になった。共産党の支援によって当選したこれらの議員達は、今後も共産党の支援を受けるのが望ましいと考えるはずだ。いま立憲民主党内では、今回の敗北を招いた枝野代表の責任を問う声が高まっていると報道され、さらに共産党との共闘路線も見直されるのではないかと伝えられている。しかしながら、そんな簡単な話で終わるとは思えない。

短く要約すると、小選挙区で成果をあげたのは共産党のお陰、比例代表では立憲民主党の勢力が大きく後退した。これが同党の現状だ。

小選挙区選出議員の<格付け>が比例代表選出議員よりも高く評価されるという<政界の常識>が効力をもっているのだとする。であれば、共産党の支援は今後も必要であると主張する同党内の党内世論は、これまでとは違って相当強くなると想像される。この事実は重い。立憲民主党は後戻りができない意思決定を既にしてしまったと言うべきだ。まさに一期一会。素人の縁台将棋じゃあるまいし「ちょと待った」はないのだ。立憲民主党は共産党の色合いにもう染まり始めているというべきだろう。出来てしまった縁を自由自在に切ったり、また繋いだりできる道理はない。

立憲民主党の路線闘争、というより迷走は結構長引くのではないかと予想する。来夏の参院選までに路線転換を円満に完了するのは極めて難しいのではないか。


こうした逆境は、発想を転換せよというメッセージだと小生は考えることにしている。

災い転じて、福となす

こんな諺もあるではないか。


立憲民主党内の紛糾と共産党との共闘路線再検討の流れは、日本共産党という政党にとっては《最後のチャンス》になるだろう。

もし日本共産党が党創設以来の《綱領》を見直し、21世紀の現代的状況に即応した「社会民主主義政党」として党自身を再構築するという方針を明らかにし、党名もまた新たな理念にふさわしい新しい名称に改名すると公表すれば、その強固な組織力が強みとなり、日本のリベラル勢力が結集するための核になるのは間違いないところだ。

歴史あるフランス共産党は既に党内改革を終え、今は多様な理念を包含する左翼政党の一つに姿を変えている。同じく、老舗・共産党であるイタリア共産党は貴族出身のベルリングエル書記長の頃、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄するなどの党改革を行うなど柔軟路線に転換し、特に冷戦終了後に一度解党したものの、その後また復活し、現在では「イタリア共産主義党」として、やはり左翼勢力の一つとして活動し続けている。

《市場の失敗》もあれば、《政府の失敗》もある。市場原理が行き過ぎれば公共の理念が求められる。反対に、公共の理念が過剰になって余りにも非効率がひどくなれば市場メカニズムが必要になるのだ。どちらの観点が欠けても、現実の社会経済はうまく運営できない。一方に固執するのは、価値観などというご立派なものではなく、単に頑固で頭が悪い証拠である。

リベラル勢力結集を果たすうえで、《周回遅れ》であるのはやはり日本であるのかもしれない。環境の変化に抵抗して進化を拒絶し、自己革新に臆病な日本人の国民性がそこに窺われるのは仕方がないとしても、「理念を守る」つもりが、実は「単に遅れている」という事の証拠であることは多い。これをそろそろ認めることが出来れば、日本の《政治》にもかつての活力が戻ってくるチャンスがある。




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