2021年11月25日木曜日

覚え書: SNSの場で誤った見解を「淘汰」するという件

いまさら「イノヴェーション」、「創造的破壊」と書いても、もう使い古された言葉になったせいか、 珍奇好みのTV局でも滅多に使われなくなった感がある ― というか、イノベーションならいいのだろうが、それを日本語に訳した「**破壊」という字面が、どうも日本人には受けない、と。そういうことじゃあないのかな、とは観ているのだ。ありのままの言葉の意味なのだが。

日本人という「国民」にとっての「最高善」とは、いまもって

和を以て、貴しとなす

聖徳太子が1400年以上も前に「憲法十七条」で唱えたこの一句ではないかと、小生は邪推しているのだ、な。Wikipediaには次のような第1条の解説がある:

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。

最近の日本の世相も、世論では「構造改革」などと声をあげているが、何だかんだ言っても、結局、ここに回帰している感がある。なので「競争」も「破壊」もホンネでは大嫌いである。今日の標題にある「淘汰」という二文字も嫌悪することハンパではないと(経験的に)感じている。

さて、

ずいぶん前の投稿でこんな事を書いたことがある:

・・・、個人による投稿は、明らかに犯罪行為を扇動するという反社会的意図に基づくものでない限り — これさえも民主化運動を支えるインフラにもなることを想えば慎重に判断するべきだが ― すべての投稿を原則自由にするのが本筋だ。間違った思想や見解は、SNSという場で淘汰していく。その淘汰のプロセスを視える化するというのもSNSという仕組みの一つの目的である ― 「淘汰」に手間取るならば、それが社会の現実を視える化したということでもあり、これまた直視するべき真実であろう。

ところが、こんな意見を公開の場に書くと、

何でも投稿してイイってことになると、軍国主義や徴兵令復活とか、そんなことを主張する人間が野放しになる。こんな投稿は禁止するべきだし、世間の目に触れればタタイテおかなければ、日本はどうなるか分かりませんヨ・・・ 炎上しても放っておけということですか?

こういう反応が十分想像されると思うのだ ― 少なくとも小生はそうなると面倒だナアと思う。

こんな論争は「論争」ではなく、所詮は「水掛け論」といえば水掛け論であるし、「堂々巡り」と言えば堂々巡りのレベルのヤリトリなのだが、近年の日本国内のメディア、ネットに現れる世情をみていると、日本人(と限ったわけでもないが)は「激論」、「論争」がホントに不得意で、普段は控えめであるのに、いざ自己の理念を主張し始めると「相互理解」などには一片の意も払わず、最後は手段を選ばず「一線を越えて」でも論敵を攻撃して勝とうとする、そんな「炎上状態」にたやすく移ってしまう例が余りに多い、ということだ。特に、日本のネット世界は同じYahoo!という場で日本とアメリカを比較しても、暴言や口撃が多数公開されていると感じているのだが、この辺り、何か共通の事実認識は形成されているのだろうか。

何か「独創的」な意見をネットで公表する人物が現れるとする。

そんな意見は多数の人々にとっては「想定外」で「非常識」の見方であるが故に、人々は驚き、その驚きの感情が世間では歓呼の嵐となるか、怒りと反発となって現れるか、それは誰にも分からないわけである。

それは何も単に「意見」にとどまらず、「新商品」、「新サービス」でも同じであって、つまり、イノベーションの成否は本来はランダムで予測不能、その中の成功例が記憶に残り、歴史になるわけで、残りはただ忘れられていくのが世の常ということだ。つまり、あるアイデアがあるとき、「反発する人が多数いるのではないか」と予想する場合には、様子を見たいという動機も生ずるので、頻繁に発生する炎上現象の背後には、巻き添えを嫌うリスク回避的な社会が形成される可能性が高い。これは「突出」をきらう保守的な世相がもたらす明らかな負の副作用である。

こんなことは、無数の人が指摘している事柄で、なにも「新奇性」はない。

しかし、「であれば」ということだが、「開き直り」かもしれないが、こうも思っているのだ、な。

「軍備拡張」、「徴兵令復活」・・・どんどんSNSの場で提案すればよい。「株式投資はリスクがあるという意味ではギャンブルだ」、「ギャンブルのどこが悪い」、その代わりに「配当・譲渡益に対する一律20%の分離課税は廃止」、「資産運用益に対する累進課税導入」・・・遠慮なく社会に発信すればよいと思う。というか、発信状況が実に貧弱である点にこそ、現代日本社会の最大の弱点が現れている。そう思うことが増えてきた。

先に提案した人物を非難するのは積極的であっても、先に提案することには慎重である。積極的であれば、提案にも批判にも積極的であり、消極的な人物は提案にも批判にも消極的である理屈だ。しかし、日本社会では提案をするときと、批判をするときとで、姿勢を変える傾向が増えている。その場、その場で態度を変えることが増えているのじゃあないか。これ即ち《機会主義》、《オポチュニスト》なのであって、よくいえば「賢い」、「戦略的」と言えるが、要するに「小賢しくて」、人物が小さいことの証拠である。気をつけなければいけない。剣呑、剣呑・・・

日本国も余りに「都会化」しすぎた、ついに「田舎」がなくなり、「都会的」であることの長所も短所も、ようやく目に見えるほどになった。こういうことじゃないかな、と思っている。


ついでに、

民放TV局のワイドショーが顰蹙をかっているのは、割り当てられた公共の電波を独占的に利用して、自らの意見・見解を一方的に放送しているからである。TV局はネットと一部融合しつつあるが、TV局は(許認可を得ているという意味では)「独占」が認められた営業体である点がネット参加者とは異型なのである。しかも、それを「企業」として展開している、という点で、実に不公平であり、戦後社会なら容認されたが現代日本社会では道理に合わないと意識される対象となりかかっている ― そう感じさせるような営業行動を自ら採っているところがあり、どこか”arrogant”である。

"Arrogant"かと思うと、どこかが"Servile"であって、なんだかよくは分からないが、一定の鋳型にはめられた発言をしている。特に、「報道番組」や「情報番組」をTV画面で視ていると、どこか自制をしている。こんな風に感じることが増えたが、ずっと以前はこうではなかった印象がある(この辺は何度か投稿済みである)。「報道」は「報道」、「解説」は「解説」、「娯楽」は「娯楽」と区分されていて、報道では事実、解説では意見、娯楽はフィクションと、制作目的の違いが明らかに意識されていた。

新聞も政治部記者が書く記事は「政治」欄に、経済は「経済」欄に、社会部ものは「三面」に編集されて掲載されている。TV番組も、「報道」、「解説」、「娯楽(エンターテインメント)」というカテゴリーを明示して、番組表を公表しておけばよいのではないだろうか。そのうえで、余計な「鋳型」などは蹴っ飛ばして主張するべき事は主張すればよい。それくらいは放送法に触れないだろう、と・・・

いや、いや・・・また、また余計なことを書き足してしまった。本日投稿の主旨は、標題のとおりだ。

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