2025年1月8日水曜日

断想: グリーンスパン「私の履歴書」を切り抜いていたか、もう17年も前になるが

旧年末に本箱を整理していると、古い新聞の切り抜きがあった。見ると米国のFRB元議長で、在任中は金融市場との絶妙な間合いから「マエストロ」と称されていたアラン・グリーンスパンが、日経の「私の履歴書」に寄稿したものだった。2008年1月1日から1月31日までの30回分である ― 1月2日は休刊日だ。

改めて読んでみると中々面白い。

終盤近くになってから、話しは日本の事になっている。

日本にも中国脅威論があるようだが、恐れることはない。日中が競合する分野はそれほど大きくないからだ。 … 気になるのは、高齢化と労働人口の縮小だ。すでに高い技術力を持つ日本が生産性を高めるのは困難。労働力や生産性上昇に限界があれば成長も鈍る。移民を増やすことに消極的だと将来難しい状況に追い込まれるのではと恐れる。

どうやらグリーンスパンは、日本経済の成長にとって中国はそれほど警戒する必要はなく、それより労働供給の制約が成長の停滞をもたらすのではないかと心配していたようだ。

確かに、コロナ後の米経済の高成長が、一面で「不法移民」によって支えられてきたことは、ある程度まで事実であるに違いない。社会全体の生産力が、労働人口と資本ストックの総量及び技術進歩で決まることは、経済学には素人の人にとっても自明の事実だろう。

設備投資が低調であったこの日本においては、労働供給こそが生産力を高める(というか、維持する?)鍵であったわけだ。その労働供給を支えてきた(ほとんど大半が非正規の)女性の就業率は既に

(令和5年は…)女性の年齢階級別の就業率は、昭和56(1981)年と比較すると、25~29歳は86.9%、30~34歳は79.4%と上昇しており、いわゆるM字カーブの底が大幅に上昇しています。

こんな状況になってきた。だからと言うべきか、民放TVのワイドショー辺りは、働ける高齢者は何歳になっても働けとばかりに発破を飛ばしている有様だ。多分、《移民政策》を正面から話題にすると、社会から総バッシングを受けると怖がっているのでありましょう ― 事実として、大量の移民労働力を日本は既に受け入れつつあるのだが。

それにしても、日本社会に根強い「中国脅威論」に対して「恐れることはない」と観ていたグリーンスパンの目が「慧眼」であったか、「節穴」であったか、どちらに考えるかは、その人の政治的立場や文明史観をあぶり出すリトマス試験紙であるだろう。

アメリカ経済についても心配な事柄は(当然)記してある。たとえば

最近は共和、民主両党が角を突き合せるだけで、互いのつきあいは減っている。だから何事も前に進まない。政治が機能不全に陥りつつあるのでは、と時々不安になる。

この辺は、最近になってアメリカ社会も一層酷い状況になってきたわけで、

分かっちゃいるけど止められない

というところが、正義と派閥を好む人間社会にはあるということなのか?『無責任なんだよネ』という語り口ではおさまらない人間社会、というか本質的に「無知」である人間たちの宿命なのかもれない。

《所得格差》を観る目も真っ当である。

公正に富が分配されていると人々が受け止めなければ、資本主義やそれを支える諸制度への支持は得られない。

これが現時点で正に進行している現象だ。

ただ、それに対しては処方箋を示しており

この問題への答えは教育にある

こう断言している。

日本の歴史を振り返ってみても、近代的学校制度の発足は、明治維新のあと早くも明治5年という時点で、断行されている。江戸以来の幕藩体制に終止符を打つ「廃藩置県」がその僅か1年前の明治4年であったことを思うと、正に

教育は立国の第一歩なり

必ずしも「民意」に沿った政治を行ったわけではない明治政府だが、この点だけは大正解であったことが、改めて確認できる。

現代日本の政府は、(民主主義社会であるにもかかわらず)この点ではまったくの落第と言うべきであろう。一部のラディカルな御仁は

いまの文部科学省は解体した方が国益に資する

と、のたもうているようだが、むべなるかな、である。

そもそも政府全体が

何をやりたいのか、サッパリ見えてこないのは、これ又むべなるかな

仕方がない……ということなのだろうか?


 


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