正月以来、雪の降らない珍しい冬であったが、月末になった昨日、今日、雪不足を帳消しにするほどのドカ雪となった。
マンションの駐車場に除雪車が入るので、今日の午前中はカミさんとMacに行って、時間をつぶす。ついで書店で植木雅敏『法華経』(角川ソフィア文庫)を買う。これは10数年前に毎日出版文化賞を受賞した同じ著者による『梵漢和対照・現代語訳 法華経』の縮約版である。
毎朝の勤行は浄土系であるが、仏教思想の中で『法華経』と『華厳経』は、おさえておこうと思っている。
本日投稿するのは、それと直接の関係性はないのだが、《平等》についてである。
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先進諸国の大きな問題の一つに《分配の不平等》がある。この問題解決に向けたキーワードが《格差是正》であって、現代日本の主たる経済問題の一角を占めているのは、もう誰もが知っていることだ。
このような《平等志向》は、遥かな大昔から人間社会に普遍的にある感情で、実際、例えば浄土三部経の一つである『無量寿経』には以下のような下りがある:
田がなければ田を欲しいと思い、家がなければまた家が欲しいと思い、牛や馬や、六種の家畜や、男女の召使いや、金銭・財貨や、衣服・食物や、家具がなければまたこれらを欲しいと思う。たまたま(その中の)一つがあるときは、また他の一つが欠け、これがあれば、あれが欠け、すべてを(他人と)等しく持ちたいと願う。
たまたま願いのままに具わるかと思えば、たちまちまた消え失せるのだ。憂い苦しむこと、このようである。また、いくら求めても得られぬ時もある。
Source:『浄土三部経(上)』(岩波文庫)
Author: 中村元・早島鏡正・紀野一義訳注
訳文は、サンスクリット原典から和訳されたもので、日本国内で読経されている漢訳文を日本語に書き下したものではない。
現代日本であれば
年収が少ないうちはもっと収入が欲しいと願い、収入が増えればもっと金融資産を貯めたいと願い、収入・資産がそろえば高い学歴が欲しいと願い、学歴があれば高級住宅地に豪邸を建てたいと願い、豪邸を建てれば優秀な子供を持ちたいと願い、子供が成長すれば名門から嫁をもらいたいと願う。
マ、こんな感じになるだろうか?
このように、国を問わず、時代を問わず、誰もが(あこがれる)人と同じだけの資産をもち、同じレベルの暮らしをしたいと願うものであるのは、当たり前の事実としてある。現代世界だけが例外ではない。
今よりは、よほど分配の平等が実現されていた「一億総中流」の日本であっても、恵まれた階層への憧憬・嫉妬・敵意は、今と変わらず世間にあったように記憶している ― 例えば、黒澤明監督の映画『天国と地獄』をみよ。
しかしながら、上の引用文にも書かれてあるが、
仮に、平等な所得が分配されるとしても、個人個人の節制・物欲が違っている以上、3年か5年も経てば、贅沢をして所得を全額使い切っている人もいれば、かなりの部分を貯蓄に回して、資産を形成している人もいるだろう。
仮に、同じ資産を与えられたとしても、ある人は運よく投資した銘柄の株式が急騰し大金持ちになるかと思えば、ある人は投資に失敗してスッカラカンになってしまうだろう。
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要するに、所得分配を平等化できるとしても、その平等がずっと続くわけではない。また富裕層から私有財産を強奪して、全国民に平等に分け与えたとしても、10年もたてば新たな不平等が現れているはずである。
人の世のあり様は、イソップ物語の「アリとキリギリス」が象徴しているとおりなのである。
所得や資産を平等に分けるだけではダメだ。 消費生活そのものを完全平等に統制しなければだめだ。そう考える御仁もいるかもしれない。
しかし、寮や兵舎の集団生活じゃああるまいし、同じものを同じ量だけ食って、同じ服を着て、同じところに旅行をするような生活が楽しいはずがない。
現代日本は高齢化している。昔は人生50年であった。50年生きたときの不平等より、80年生きた時の不平等の方が拡大しているに決まっている。
ずっと以前、不平等は長寿化の副産物であると指摘した経済学者がいたが、実に的をついた知見だったと思う。
何ごとも《一得一失》。長寿化を喜ぶなら、老後の格差拡大を憂えるべきではあるまい。
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真の問題があるとすれば、親の世代で生じた格差が子の世代に継承されることである。
ただ、これもまた、この事実が善いことなのか、悪いことなのか、小生は判断を控えたいという立場にいる ― 何も「国」でなくとも、いくらでも社会的な工夫をする余地があるからだ。「善意」というものは、「国」よりも善意をもった「個人」に宿るものだ。
資産をどう相続させるかは、その資産を形成した人が(基本的には?)決めればよいことである。《個人の尊厳》と《私有財産制》の基本原則を尊重する限り、(少なくとも)日本社会では、現状が大きく変革されることはないと予想している―ずっと以前、相続税100%の提案もやむを得ないと記したこともあった(例えば、これ、これ)。が、この提案は「国家」という存在、というか法的機構が善であると前提しての話である。現在はこの辺りの観方を変えている。
【加筆修正:2025-02-01、2025-02-02】
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