いわゆる「京アニ事件」、京都にあるアニメ制作会社である「京都アニメーション」放火殺人事件だが、死者が33人に達し、これは昭和戦前期に発生した「津山事件」の被害者数を上回る。文字通りの歴史的大事件であったのだが、犯人側がこのたび控訴を取り下げ、死刑が確定したとの報道だ。
この事件はショッキングで、発生時点で本ブログにも個人的な感想を投稿している。その当時、カミさんとはこんな話をした事が記されてある:
小生: 放っておけば死んでいたはずの主犯を必死に蘇生させて命を助け、助かったら今度は国家権力が『その方の罪は重大にして非道。斟酌するべき情状は認めがたし。よって死刑とする』って言い渡して、改めて法の名の下に死んでもらう。これはサ、ちょっと俺の感性には合わないナア。
カミさん: 犯人に動機を聞いて、きちんと裁判をして、遺族の人もそれを聴きたいんじゃないの?
小生: いくら司法手続きがいるとか、社会にとって必要だと言っても、犯人が死を選ぶ自由を認めず、あくまで法を優先させて、その後になって国家が改めて犯人を殺すっていうのは、どれほどの悪人であっても人が持っている人権を国家が侵している。そう感じるけどネエ・・・
マア、法で定める刑罰として「死刑」が設けられている以上、今回の犯人に死刑を宣告しないなら、どんな犯人なら死刑判決が出せるのか、と。そんな量刑の斟酌があったのかもしれないナア、とは思っています。
仕方がない、と言うしかないのかもしれないが、何度も投稿しているように、小生はそもそも死刑廃止論者である。実際、<死刑 廃止>でブログ内検索をかけると、相当数の投稿がかかってくる。その中には、こんな下りもある。
しかし、政治家の不倫が許せないと放送しながら、若者は闇バイトに応募して強盗殺人を行い、高齢ドライバーは生活に不便だと車を運転して、案の定、事故を起こす。
全部をまとめると、
何という、マア、素晴らしい世相でございましょう・・・
死刑の継続を望みながら、体罰禁止に賛同する世の中も似たようなものでございます。
これは義務 あれはルールと 自らを
しばるが人の 生きる道なり
ドイツの哲学者・カントを手本とする普遍的モラルを追い求めていた戦前のエリート達が始めたのが太平洋戦争であります。ガリ勉の一知半解とはこの事でござんしょう。
これは、つい最近の投稿だ。
「法の論理」を通したいのは人間の知の領域だが、「人の命」は自然と大地から生まれた現実そのものである。もてあそんではいけない。そう感じますがネエ・・・。人間の知の理屈を自然に対して無理に押し付けると、自然から逆襲されて滅びるのは人類のほうですゼ。これを忘れちゃアだめだ、と。そう思いますネエ・・・
この事件について最初に感じた印象は、死刑判決が確定した現時点でも変わっていない。
*
ただ、国家と人間の生命との関係を考えるとき、以下の設問に解答することも求められるだろう。
殺人事件が発生すれば、被害者の家族は犯人に対する復讐を欲するものである。これに対して、国家は司法の名において、遺族による復讐を否定し、刑罰を定める。結果として、犯人を助命することもある。被害者の人命は失われているが、犯人の命は国家によって救われるという状況を、合理的であると理解することが求められているわけだ。
一方、国家が他国に侵略されるとき、徴兵ではなくとも、国防の職務に就いている人には、生命の危険が伴う任務に応じることが求められる。戦場で命を失うとしても、それは国家に個人の命を犠牲として捧げる「戦死」、つまりは「殉職」として法的には認識されるはずである。
ある時は、殺人犯の命を尊重し、ある時は最前線の兵の命を要求する。
勇敢な兵の命を国家に捧げよと言うなら、人の命を奪い国家の掟を破った殺人犯の命も当然のこととして国家は奪うべきであろう。そうでなければ、家族を殺された遺族にとって国家とは非条理そのものに映りましょう。兵の命は犠牲にするが、殺人犯の命は助けるのか、と。
まあ、これも一つの理屈だネエ、とは思う。
故に、死刑廃止論には、仮に戦争状態になったとき、国家の名において兵士の命を要求できるのかどうか、この設問への回答が含まれていることになる。
メモしておきたい。
但し、本日投稿の後半では「冤罪は絶対にない」と前提している。冤罪が絶対にないという状況の下でも、国家による死刑は廃するというのが、本当の死刑廃止論である。他の論点は無視している、念のため。
0 件のコメント:
コメントを投稿