2025年1月11日土曜日

断想: 実存主義哲学と浄土系思想、どこか似ているという話し

学生時代にはマルクスの唯物史観が人気の絶頂にあり、従って歴史の段階的発展仮説から必然的に「予測」される社会主義革命を待望するというのが、小生の少し上の世代、及び少し下の世代で共有されていた感覚であった(ように記憶している)。

今はそんな気風はないと思う。むしろ社会主義イコール強権的政府というイメージが定着してしまった。

考えてみれば、唯物論に共感しながら、クリスマス・イブの夜にはパーティを開いて遊び、元日には神社に初詣をして、御神籤を引くという行動は、頭脳が丸ごと矛盾の上に構築されていたわけで、それを不思議に思わなかった所こそ、当時の若者世代が精神的にいい加減、というよりタフであったところだ ― 矛盾こそ次なる発展の起点になるという屁理屈をこねていたものだ。マ、(マルクスもそうだが)ヘーゲルの聞きかじりだ。

小生は、「ドイツ観念論」という(単なる)呼び名にどこか知的なカッコ良さを感じ、それと同時に自分の研究テーマとしていた計量経済学の基礎になっている科学的世界観も是としていたので、唯物論的世界観にも賛同するという、何だかコウモリのようなポジションにいた(ような気がする)。が、それでも仲間内では「これもまた良し」という風で、時間があれば大学裏門の真向かいにある甘党兼喫茶店に座を占めて、半日の間は、友人たちと役にも立たない雑談にふけったりしていたから、今となってはゲーム機で遊んでいた方が時間のつぶし方としてはまだ気が利いていたと思う。

議論に熱中したから、頭脳が鍛えられる、とは限らないのだ。良い議論をしなければ、無知は無知のままである。

「物自体」から構成される外界から、人は色々な情報を感覚器官から得るが、「理性」は生得的な枠組み(=空間・時間、更には因果関係などのカテゴリー)に沿って、感覚的情報を整理して、「合理的世界」を意識の中で構成する。それが認識である。つまり、理性、というより「悟性」というべきだが、人間が生得的にもっている認識能力が処理した情報(=現象)のみが、人間が意識する世界には配置され、モノとして認識される。そういう哲学で、これは確かにプラトン以来の伝統を感じさせる所がある。それ故に、ニュートンやアインシュタインの理論物理学が典型的だが、世界が合理的に観えるのは当たり前のことで、そもそも目の前で展開される現象を、例えば因果関係に基づいて、人は合理的に説明するものなのだ……、人間は非合理な世界に自分がいるとは思考できない。これがカントの発見した純粋理性というヤツだ。

カントにおいては、意識の中で理性が構成する世界は、現象界を説明しているにすぎず、物自体のごく一部を占めるだけだが、理性が意識と外界との矛盾を解決しながら、自己発展的に成長すると考えれば、最終的には理性が構成する意識と物自体の客観世界が一致し、人の理性が導く結論が客観的にも正しい、いわば人が神様になるというか、可能性というか、そんな道筋を開いたのがヘーゲルである(と理解している)。

このような道筋の造り方は、どこか日本の哲学者・西田幾多郎の『善の研究』からも窺われるのだが、その辺は別の投稿でも一度とり上げたことがある。

ただ思うのだが、西洋流の哲学を読んでいると、浄土系仏教で強調する《煩悩》という語句が、まず出ては来ないのだ。まして人が煩悩を去って、理性の光に照らされて、客観世界の真相を捉えるに至るなど、仏教の立場から言えば《悟り》というべきだろう。悟りは、自力思想の最終到達点ではあるが、他力思想では実行困難なゴールである(と認識される)。

煩悩に理性が曇らされた《凡夫》は《無明の闇》の中で生きている(と考える)。確かに、理性は光である。真理は人を正しい生き方に導く。理性は、客観世界の真相を人に伝える力をもっているが、他力思想から言わせれば、こんな議論は机上の空論である。

『無明が知性をだめにする』と洞察したのは(もう故人だが)著名な伝説的数学者・岡潔である。

いまの世相は、芸術家は美を知らず、学者は真を知らずというありさまだが、そんなふうにさせてしまっているその本体こそ、無明というものではないか。そして無明の働きに対して、全く警戒を忘れているのが現状ではなかろうか。

随筆『春風夏雨』の第2章「無明」でこう書いてある。刊行は昭和40年だから60年も以前の昔だ。現在は更に闇の度合いを増していると推察するべきだろう。

このように、現実には全ての人は《貪瞋痴》という「三毒」によって、常に欲望に負け、怒りや焦りに身をまかせ、間違った思い込みから道に迷ってばかりいる存在である(という世界観である) ― ま、好意的にみれば「努力」とも言えるであろう。

ちなみに『春風夏雨』の第1章冒頭は

近ごろ、生命とは何かががようやくわかってきたように思う。

こんな書き出しから始まっている。

精神より生命が先立つ

というのが、素直にみる時にみえる「宇宙」なのだろうというのが、小生の立場だ ― これも最近になって迷いが出てきたのが正直なところだが、この点は既に投稿した。

こう考えると、ヘーゲル死後にヘーゲル批判派が提起した《実存主義》の哲学は、理性という光から人間を理解するのではなく、現実に存在している人間のありのままの姿を論じている点では、

たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして…… 

という法然『一枚起請文』で前提される人間観に近いものがある。

とはいえ、他力思想は日本史の中の平安末期から鎌倉初期にかけての「飢饉と動乱の時代」で急速に浸透した宗教思想だ。それまでは「自力」で最高の智慧に至ろうとする聖道門が支配的だった。自力主導の聖道門は現実には選択困難であると観るところで他力による浄土門に目が向けられるわけだ。

近代ヨーロッパの実存主義は19世紀の資本主義世界で生まれた。歴史のフェーズは遠く隔たっているが、最高の智慧に到達できる人間などはいないと現実を理解するところでは、実存主義哲学と浄土系仏教思想とは、どこか似ているところがある。この二つに相互関連などはないが、人間が考えることと、それを考える人間をとりまく世界との関係性には、意外と時間と空間を超えて共通する面があるのかもしれない。

【加筆修正:2024-1-12】

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