元アイドルの中居某がフジテレビで犯した性的不祥事が、事件発生後1年半もたった今になって発覚し、拡散してきた。今ではもう「ロサンゼルスの山火事」のように手が付けられない状態になった。
直接関係者が少人数の当初の「事件」が、今はテレビ業界が丸ごと巻き込まれる程の構造的スキャンダルになったという点では、一昨年(2023年)春以降に大騒動になった「ジャニーズ・スキャンダル」を思い出す人も多いだろう。本ブログでも話題にしたことがある(例えばこれ)。ほぼゝ同じベクトルの「性的不適切行為」であり、海外に飛び火しているという点も同じだ。
そういえば、今回の直接当事者である中居某も同じ芸能事務所の出身である。どうも旧い社風に染まり切った行動パターンが身についてしまったのかもしれず、そう思うと、今回の騒動は《ジャニーズ・スキャンダル後日談》とも言えるのかも・・・
騒動自体には何の興味もないが、ただ思案しているのは、
この30年間、「テレビ業界」というか、「民間放送局」という企業は、一体どんな貢献を日本の中で果たしてきたのだろう?
こんな疑問である。
何も「存在自体が悪」とは思わないが、「要るのか」という疑問は最近でも投稿したことがある。
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1980年代末までの日本は"Japan as No.1"とまで警戒されていたほどで、特に製造業の生産性は世界のトップレベルにあった。この歴史的事実を体感感覚として(アリアリと)思い出せる人は、現役世代の中で次第に減ってきているに違いない。
1990年以降のバブル崩壊後、国内企業は三つの過剰(=過剰設備+過剰雇用+過剰債務)に苦しんだ。生産拠点を海外に移転できる製造業は短期的に救われたが、移転が難しい非製造業では大規模な産業再編成が進められた。日本経済はそれまでの勢いをすっかり失い、「失われた30年」と呼ばれる長いトンネルに入ったのは、もう誰もが知っている事だ。
日本のGDP成長率が、ずっとゼロ近辺であるのは、労働資源が減る一方で、資本ストックが大きく増えない、つまり新規設備投資にずっと消極的であったためだ。新規投資に消極的であるから、設備に内在化される最先端の技術も導入されず、導入されないから経営思想も経営感覚も進化せず、それでも何とかしなければならないので、「働き方改革」や「男女雇用均等」の理念が大義となる一方で、就業の現場は多様な価値観が絡み合い、結構スパゲッティ化しているのじゃないかネエ……と、だからイノベーションを起こすにも深さや広がりに欠ける。
確かに日本全体が停滞してきたマクロ的な側面はある。
日本経済が停滞する中でも円高は進んだ。実際、円ドルレートの最高値は2011年10月31日の75円32銭である。この円高基調の継続によって、製造業の生産拠点は海外に流出していった。日本は「モノ作り」ではなく、第3次産業によって食っていく国へと変容した。故に、東日本大震災後の日本は、モノ作りではなく、非製造業、つまりは第3次産業の生産性をいかにして上げるかが課題であったのだ。
第3次産業の内のかなりの部分は、人が(モノではなく)人に働きかける(広い意味の)サービス業である。サービスにもスキルが経験知として求められるし、知的資産も必要だ。日本経済のサービス化が加速したのが2011年以降の「ポスト大震災」という時代だと小生は(勝手に?)思っている。
サービス部門の効率化、高付加価値化は決してできない事ではない。アメリカでも製造業は没落している。それでもアメリカ経済として活力があるのは、第3次産業の生産性が(極めて)速いペースで上がっているからだ。
そのサービス部門の生産性上昇が、日本ではずっと停滞してきた。ここに日本の停滞の主因がある。(多少のIT機器導入はあったかもしれないが)ほぼ同じ仕事をほぼ同じやり方で続けてきた ― スマホ活用は確かに目新しい新技術・新商品ではあるが・・・。サービス業に従事する現場の人であれば、大なり小なり、そう感じているのではないだろうか?
本当は、人が人に働きかけるサービス部門内でも、省力化投資を進め、デジタル化を進め、最先端のサービス現場を構築するべきだった。新しいサービス現場を構築する一方で、それと同時に高い顧客満足を形成し続けるべきであった。しかし、日本のマスメディアがずっと強調してきたことは、
日本の強みは暖かいオモテナシにこそある。これを守って行かなければいけない。
一体、何を言いたかったのだろう?
何回、このセリフをTV画面から聞いただろう。
同じことを、これまでどおり、続けてください
そう洗脳しているようなものだ。正に
サービスの安売り、労働の安売りである
何もサービス業だけではない。非製造業の外の部門、金融保険しかり、流通しかり、運輸しかり、教育しかり、医療しかり、介護しかり……、だと思うが、事実と違うのかな?
基本的なロジックとして
同じことを、同じように続けていれば、同じ量のアウトプットしか出て来ない
誰でも分かる理屈だ。これでは与えられた労働資源と資本ストックの下で、付加価値は増えず、生産性は上がらない。だから経済成長とは無縁になる。
「成長」とは、新しい事をしようという意志から、実現される結果である。
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そして放送業があり、広告メディア事業があり、コンテンツ産業がある。
以前はなく、今はあるという最先端の新サービスを何か創造しましたか?
これを真っ先に問いたい。海外の後追いでもイイから、何か新しい実験をしたというなら教えてほしいくらいだ。
そもそも、世論を左右できる報道機関として、日本のTV業界は、日本の非製造業が行くべき方向へと進むように、全力で後押しをしてきたのだろうか?
違う。
何より、テレビ業界は、電波に執着し、1990年代以降の世界で開花したインターネットを敵視した。
デジタル化への動きにも違和感を表明し続けた。
自由化、自動化への実験にも慎重な意見を語り続けた。
驚きに値するのは、ネットを敵視する姿勢を、現時点でもなお保持していることだ。その頑迷さは正に驚きに値する。
コンテンツ作成方法の革新、人的資源管理方式の革新、取材方法の革新など、テレビ局社内の現場において、21世紀に入って以降、どんな技術革新を進めたのだろう?どんな生産性向上努力をしてきたのだろう?
日本国内のテレビ画面を視る限り、例えばAmazonや楽天市場が機能性を高めてきたような、そんな未来への歩みを感じたことは、一度もない。提供しているのは、過去の模倣、というより過去の最高水準にも達しない劣悪なコンテンツばかりではないか。
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日本ではサービス業の生産性が低いという指摘がずっと以前からある。
ところが、産業間で年間収入や平均給与、初任給を比較すると、概して製造業は低く、第3次産業は高いのである。
この事実が不思議に感じていた時期がしばらくあったものだ。
カギは、産業間で違いを見るのではなく、企業規模別に見るべきなのだ。
第3次産業には、政府の許認可に基づく大企業が多い。政府公認の《競争制限行為》によって、寡占企業は準レント(≒独占利潤)を得る。それも政府の保護によって長期間継続的にだ。いわゆる「専門職」に括られるサービスも参入障壁に守られて高額である。製造業にはそんな保護はない。製造業の商品は貿易財である。故に、世界市場における競争圧力にさらされる。大企業だからといって日本国内で非合理な価格は設定できない。特許で得られる創業者利得も代替品の登場によって短期間で消失する。
日本で生活するために利用する第3次産業商品は、大企業が提供するものと個人・零細企業が提供するものに分かれる。「日本ではサービス業の生産性が低い」と指摘する時のサービス業は、実は個人・零細事業者を指しているのだ。たしかに、個人経営の理容店が「生産性を上げる」というとき、実行可能な選択肢は限られるだろう。しかし、資金さえあれば出来ることはあるのである。その資金調達が円滑ではない。日本の資本市場は不完全なのだ。
大企業はどうか?例えば、日本の金融保険部門を支配する寡占企業は、生産性が世界標準並みに本当に高いのだろうか?生産性が高いのではなく、高い給与による高コストを利用者に押し付けるだけの市場支配力を政府によって容認されているのではないか?
病院はどうなのか?学校はどうなのか?業界が規制に縛られて、事業内容、参入撤退まで、丸ごと非競争的である。生産性上昇への動機が十分働いていないとしても「これも又むべなるかな」である。
規制は生産コストと価格とを乖離させるのである。これに安住して、規制で保護された企業は、技術革新への動機が弱く、新規事業開拓や制度改革には消極的になるのである。
データで検証する作業を(面倒だからやらないが)自分でやりたいくらいだ。
要するに、
政府の規制によって過剰に保護される企業は、俗に言えば《腐る》のだ。腐敗した企業と取引する企業も腐っていく可能性が高い。腐敗は伝染する。これは《構造悪》であって、経営者、社員個々人のモラルで解決できる問題ではない。
小生の見方はこうであります。
言い換えると、日本の低成長は、第3次産業の低生産性そのものにあるわけではない。生産性向上への意欲の欠如こそ問題の核心である。
「欠如」どころか、自社の社風に「プライド」すら持っているかもしれない ― マア、「郷愁」という方がピッタリするのかもしれないが。外側から見ると、批判的にこう書けるが、こうした保守的経営を招く制度を社会の側が造っているとも言える。故に、企業の経営責任もあるが、時代遅れの法制度の問題でもある。こう考えているのだ、な。
第3次産業主導の経済成長が(今なお)できない主たる原因はこの辺りにある。
特効薬があるとすれば、聖域を設けることなく規制を撤廃して、国内の非製造業を海外資本に全面開放することかもしれない ― 激しい副作用が予想されるが効き目は絶対にある。
……、それでもしかし、病院や学校は、低生産的であること自体は困るが、日本人の生活には欠かせない。問題があるとすれば、需要のあるサービスが行政手続き上の理由で遅れがちとなり、適時適切に低コストで供給されないこと位である。
では、テレビ局はどうなのか? 新聞社はどうなのか?
何のためにあるのか?
本当に、いま要るのか?
保護すべきなのか?
政府による保護があるからこそ、30年前とほぼゝ同じようなコンテンツを作り続けていながら、TV局は企業として存続してきたのだと思われる。
こう言われても仕方がない状況だと思うがいかに。
以上から、
許認可制で寡占化された放送業界、特に全国放送権をもつ基幹局は今の日本に必要ない
これが現在の見方であります。
そもそも許認可制で保護された寡占企業が、自ら(特に政治問題について)世論を左右する事業を展開するべきではない。例えは悪いが、日本共産党が政党交付金を受け取っていないのと同じ話しだ ― だからこそ危険でもあるのだが、これまた同じロジックということで。世論の形成は世論の自律的な自己展開に委ねるべきである ― もちろん政治家も世論の中の登場人物である。
何だか地域ブロックごとの電力会社に相通じる立場にいるのかもしれない。そういえば、全国紙・地方紙を含めた新聞社もそうだ。これらは全て、昭和戦前期から終戦直後にかけて出来上がった産業組織である。よく今まで守られてきたものだと思う。まるで江戸時代の《株仲間》である。
【加筆修正:2024-01-22、01-23、01-24、01-28】
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