2025年1月17日金曜日

断想: 「浄土」という観念と「無限大」という数学的観念と

西田幾多郎と親交のあった哲学者・宗教家に鈴木大拙がいる。『日本的霊性』がよく知られているが、『浄土系思想論』も岩波文庫に入っている。こちらは哲学というより宗教論に近く一般受けはしないかもしれない。が、その中の「浄土観続稿」第5節に次のような下りがある:

とにかく、浄土は吾等の感性的対象でもなければ、分別智の領解を容るべき圏内にも入らないようである。浄土の空間は娑婆の空間ではない。時間またその通りである。…浄土は徹底して不可思議なのである。

娑婆とは我々が生きているこの現実世界のことである。浄土と呼ばれる世界は、この世界のどこにも存在しないと言っているわけだ。

他力思想に基づく浄土系仏教信仰において、最大の難所は文字通りの始めにあるわけで、浄土、つまり「極楽」なる世界が本当に存在するのか?その極楽世界を創った阿弥陀如来なる存在は本当に実在するのか?

こんな疑問に回答が得られない限り、どうもただ「信じろ」と言われたって、疑わしいネエ、と。救済や信仰対象をよほど強く願望している人はともかく、毎日をマアマア安楽に暮らしている人ほど、こんな疑問をほとんどの人は感じるような気がする。

こうして文字で「浄土」と書くのは簡単だが、書いたからって実在が約束されるわけではない。そんな理屈がそもそもあるわけだ。

ただ、思うのだが、理解しているつもりでも、私たちの感覚では観察不能な概念を、まるで実在するかのような感覚で使っている言葉は、他にも色々ある。

位置だけがあって大きさのない「点」、幅がない純粋の「直線」、目には見えない(はずの)直線で囲まれた純粋の「三角形」などという言葉をここで繰り出すのは、寧ろ幼稚な例になってしまう。

それより$\infty$、いわゆる「無限大」は、もっと「浄土」という言葉に似た概念かもしれない。



一つ言えるのは、無限大は実数ではないという点だ。実数ではないので、数字では表現できない。
 
エッ、何故かって?
 
いま、$\infty \,\,\in \, {\Bbb R}$と仮定する。
すると、$\infty$に$1$を加えた値も実数であり、$\infty$より$1$だけ大きい。つまり、 $$ \infty \,\, < \,\, \infty + 1 \in \, {\Bbb R} $$ しかし、 $\infty$は、いかなる実数よりも大きいから $$ \infty + 1 < \infty \quad \therefore 1 < 0 $$ これは矛盾だ。故に、背理法により、無限大は実数空間には含まれないと結論できる。 

つまり、いかなる数字でも表現できない。この世界は「有限性」に束縛されているので、無限大という大きさを測ることはできないわけだ。

$\infty$は、この世界では決して感覚的に観察できない大きさである。しかし、数学の理論展開において$\infty$は不可欠で日常的に使用されている。使っているということは、存在していると考えているわけで、ありもしない空想で数学を構築しているわけではない。実際、人間の頭脳が創りあげた数学が外界の宇宙をよく説明できるのは驚異とも言える。その数学で、この世界の外に飛び出す値である$\infty$を使っている。

無限大もまた比較を超えた、絶対的に巨大な数量、即ち「不可思議」な値であるには違いない。

更に、虚部を含む複素数には、一層のこと空想性を感じる向きが多いだろう。が、その(計算上の有用性ではなく)物理的な実在性については、他の説明がネットにはあるし、もう面倒なので省略する。

いずれにせよ、上の「浄土」という鈴木大拙の解説を読みながら、ふと連想したのでメモしておいた。

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