2025年12月26日金曜日

断想: 懐かしき小室直樹の小室節をみるとは

小室直樹といえば亡くなってもう10年以上がたつが、生前は傍若無人にして時に天才的見解を語る評論家として名前だけは知っていた。ただ、仕事があまりに忙しく、氏の著書はほとんど読まないという状況が続いた。

氏の著書を初めて読んでみたのは、亡くなったすぐ後の頃だったかと思うが、何を読んだのだったかな?・・・忘れてしまった。忘れたが、この時代に読むにはもう遅すぎたかな、とそんな感覚があったことだけ覚えている。リアルタイムで新著が出るたびに読んでいれば、その鋭さに感服していたのかもしれない。

このように縁は薄かった小室氏であるが、最近、小室氏が書いた次のような短文が引用されているのを見かけた(文中、小生の裁量で意味のとおりにくい個所に修正を入れてあること、ご容赦を):

政治は元々極めて野獣的なものであるから、「政治倫理」と言う事自体、既に大きな矛盾を内包している。此処の処が、どうしても日本人には分からない。

 日本人は、政治の倫理の中へ、無制限に一般普通人の倫理を流入せしめるからこそ、却って、其れ自身、独自的でなければならない政治倫理は、自分自身を確立する事が出来ず、政治はアノミー化する。政治の倫理は、庶民の素朴な正義感と正面衝突する。

 政治家の任務は、「国民を幸せにし国家を安全にする」事にあるのだから、其の目的を実現する為には、普通の人間に許され(ない?)場合が屡々(しばしば)ある。

 政治の世界は、一般人の生活世界とは違うのである。そう言う政治世界で有能な政治家である為には、政治家たるもの、権力欲に滾(たぎ)っている人間でないと駄目である。

 此の事を、国民ははっきりと理解すべきである。

 権力欲のない政治家は、国を滅ぼすのである。だから「出たい人より出したい人を」(などと?)言うスローガンは、ナンセンスも甚だしい。俺が俺がと、権力欲の権化の様な人物でなければ、国を富まし隆盛に導く事は出来ないのである。

 権力欲が全然ない近衛文麿は全然ダメで、権力欲が余りない片山哲や鈴木善幸が殆どダメだった事を思い出すといい。

 リヴァイアサンの様な怪獣でないと誠実(まとも)な政治は出来ない。

 何時(いつ)の世でもそうだが、特にデモクラシーズ(デモクラシー諸国)が存続し得る条件は、其の上、立憲の常道が守られ、ジャーナリズムが正常に機能している事である。

URL: https://note.com/howan2878/n/ne8843cc1d385 

いやあ、小室氏ですか、懐かしいなあと思った。それに書かれていることは、まさに小室節にして、正論そのもの、最近流行している単語を使えば「ド正論」である。

これは正論じゃな

それが最初の感想。次に、感じたのは
それにしても「ド正論」だと認識しながら、それを行為につなげていかない現代日本社会の傾向は、とどのつまり、いったい何なンでしょうね?
と、改めて最近の非論理的なバカバカしさをも同時に感じたわけである。


昭和の妖怪といえば安部元首相の父上である岸信介と相場は決まっているが、昭和の怪物といえば田中角栄というのが多数意見であるような気がする。

その田中角栄という政治家は、令和初期の現代日本社会なら、強引な金権政治手法とブルドーザー的な実行力が大衆から忌避されて、マスメディアの標的となり、数多くのスキャンダルが早々に暴露されてすぐさま失脚していたに違いない。しかし、田中角栄が登場した時代は、上の小室的社会哲学が一定の支持を得ており、
政治家とは強制力をもつ権力を堂々とふるう人物である。
この当たり前のことが社会でマア、マア(?)認められていたという時代背景がある。


それにしても、《リヴァイアサン》、この言葉が出ました。

小室氏と同年代の社会哲学者が愛用した用語である。人間社会は『万人の万人に対する闘争』であると喝破した英人・哲学者トーマス・ホッブズは「国家」とは人類を見下ろす海の怪獣《リヴァイアサン》であるとイメージ化したのであった。小室氏の世代は、この枠組みが大好きで、伝統的立場に立てば「王権神授説」、近代的立場に立てば「社会主義礼賛」という選択に至ると言っても可である。

何と令和初期の現代日本人の感性と乖離しているであろうか?


しかしながら、現代世界は複数のリヴァイアサンの間で展開される覇権闘争の観を呈していて、アメリカ政府、中国政府、それから欧州も(?)、ロシアも(?)、第三世界も(?)、来るべき闘争の時代に覚悟を固めつつあるように、小生は感じる。

いずれにしても、18世紀から19世紀にかけて成立したヨーロッパ起源の《市民社会》を理想とするイデオロギーは、ヨーロッパ文化の地盤沈下とともに色褪せて行くのではないか?小生はそんな方向を予想したりしている。フランス起源の《G7サミット》。20年後にも存続しているイメージがわいてこないのだ。

それが善いことか、悪いことか、には小生は関心をもたない。ただ、世界がどう変質し、どの方向に向かいつつあるのかを考えたいだけである。それに世界の潮流を変えることなど、どんな政治家や独裁者にも出来ないことである。そんな力も権限ももっていない。政治家(とは限らないが)というのは、変化する世界に対応していくことだけである。対応が適切なら有能、不適切なら無能。ある程度、世界の行く末を先取りしてフレームを提示できる政治家が登場すれば、歴史的な大政治家ということになる。

引用した記事が令和7年10月6日という時点で世間に投稿されていること自体、平成から令和にかけて日本に浸透した《何だか分からない戦後日本的なイデオロギー》を服を着かえるように脱ぎ捨てる兆しなのか?そんな予感も感じたりするわけだ。

これは善いことだ。

日本社会も変わりつつある。つくづくそう思うのだ、ナ。

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