2012年7月22日日曜日

日曜日の話し(7/22)

画家ゴッホはオランダ人だが、フランスに来てパリから南仏アルルに移り、その地で自分が描くべき画題を見出した。


Gogh, Irises, 1890
Source: WebMuseum

ゴッホが描いているのは青いアイリスだが、観る人が感じるのは花の美ではない。美しい花だなあと思いながら作品を鑑賞するわけではない。それなら写真のほうがよほどマシであろう。私たちが感動するのは、単なるアイリスという花を上のように表現できたゴッホの感性に対してである。誰でもが心の中に持っている花に対してもつ感情。その感情を目に見える作品として顕在化してくれている。だから立ち去り難いのだ、な。

セザンヌは南仏エクス・アン・プロヴァンスからパリに出るが、後年郷里に戻り、ずっとその地で生涯を送った。ゴッホ、というかその他にも数えきれないほどの表現派芸術家はいるが、セザンヌの作品からは揺れ動く精神上の不安を感じることはあまりない。というか、美のみを感じるのであって、画家セザンヌ本人の心の中に吹く風を感じることは(小生の感覚からは)全然ない。<美>は、真に美なる価値がそこに投影されているから<美>たりうるのであるという考え方が的をついているなら、セザンヌの作品の中に人間の心ではなく、どこかで完成された永遠なるものを見るような心地がするのは、まさにそういうものをセザンヌが求めた、ということだったのであろう。これは確かに<表現主義>の理念とは正反対の位置にセザンヌが立っているとも思われる。 中でも小生が好むのはセザンヌの静物である。「静物」とは、文字通りの静かなライフ(Still Life)であり、命がつきて、再び生命を吹き込まれるまでの間の静寂を指している。一つが以下の作品。


Cézanne, Stil Life with Skul, 1895-1900
Source: WebMuserm

もう一つは以下の作品だ。


Cézanne,  Le vase paillé, 1895
Source: WebMuseum

生きた存在であるのは林檎の方であり髑髏は既に死んだ存在である。しかしセザンヌの絵を観ていると、命のあるなしは既に問題にはなっておらず、存在というものを考える等しい眼差しがあるだけである。小生はそう感じるのだな。そこがいい。心の安らぎを覚えるのは、一睡の夢のような命を超えた<美>と言う真に存在するものを、あらゆるモノから等しく、一様に、統一的に感じ取ったセザンヌという画家の精神に共感を覚えるからだ。たとえそれが無意識の共感であるにせよ。

いま韓流の宮廷サスペンスドラマ「根の深い木」を観ている。何回目だったか面白いやりとりがあった。ハングルを創製した世宗と王に敵対する首謀者とのやりとりだったか。
「民に文字を教えて、その民が表現する楽しみを覚えたらどうなりますか?無学なものが無学なままに、書いて、伝えれば、世の中は混乱するでありましょう」
「それを混乱と言うのか?」
「秩序の崩壊です。文字を覚える過程で両班は必ず倫理の修養をします。そのための本を読みながら文字と倫理を並行して身に着けるのです。たった二日の勉強で、他人に伝えたいことを文字にできる。それが秩序の崩壊でなくしてなんでありましょう?」
「しかし、文字を簡単に使えるようになれば、知識も簡単に身につけることができる。そなたが言っておるのは両班が既得権益を手放したくないというそれだけではないのか?」
「民は文字を使って何を求めるとお考えになります?欲望です。無限の欲望です。民は欲望を満たすためにのみ、文字で知識を身につけることでございましょう。それをお許しになるのですか?」

本当に韓国人は理屈が好きだねえ。というか、一般に大陸諸国では洋の東西を問わず白熱した哲学論争を聴くのを好む点、古典として残っている多くの文学作品をみればわかる。

古代ギリシアでは人間を三つの部分から考えた。理知と感情と欲望である。欲望は常に理知に反しようとするが、怒りや情愛という感情が常に理知に味方する。ギリシア人はそう考えた。アングロサクソンから発した経済学では、人の利己心を前提する。別に善いこととして是認するのではない。人は欲望に駆られるものと認識するのだ。そう容認するとしても、人の欲望を他の人間の欲望と衝突させ、相互にバランスさせることによって、社会的には秩序を形成することができる。秩序をもたらすのは、統治者の理知ではなく、市場価格という匿名の、抵抗しがたい数字である。もはや統治者は人間ではないが故に抗いがたいのだ。これが自由市場の理論として、この200年間、世界に浸透してきた"Economics as a social science"、社会科学としての経済学であるわけだ。こういう社会観は、しかし社会を統治するのは理知であるべきであり、欲望を是認し、それを利用することによって政治を行うべきではない。欲望とは、倫理や宗教を通じて統制するべきなのである。こういう思想とは相対立する。歴史を通じて一貫して主流の考え方であったのは、むしろこちらの立場なのだな。

欲望の自然なバランスではなく、あくまでも理知によって社会を治めるべきであるとすれば、そのとき大衆が自らを自らによって治めるという道がありうるのかどうか。<デモクラシー>という社会のありかたと、欲望ではない<理知の尊重>とは両立できるものなのか?

「簡単に覚えられる文字を民に与えて、あとは勝手にやっていけと。殿下はそう言いたいのでありましょう。うまく行かなくとも、それはお前たちの責任だと。これほど無責任な政治がありましょうか?政治は責任です。知識のあるものが政治を担当し、失敗をすれば士大夫は責任をとれます。民が民自身を治めるのはよいが、もし失敗したら、誰が責任を取るのです。民がみんな死ねばいいとおっしゃるのですか?」
「お前はなぜ民を信頼できないのか?欲望を求めるとしてもよいではないか?」

いやあ、経済学から統計学に移民した小生にとっては、誠に知的興奮を感じるやりとりであった。そんな知的興奮を感じるやりとりは、もしセザンヌとゴッホが芸術論を闘わせていれば、そしてそれが文章になって残っていれば、これはこれで大したものであったに違いなく、やはり見落とすことのできない古典となっていただろう。

2012年7月20日金曜日

責任感より、将来不安が世を動かすとき

どこに分類されるかだけから言えば、小生はいわゆる<既得権益層>に所属しているのだろうとは思う。

年間収入は、同窓生に比べれば半分ほどである。が、しかし、それは仕事に制約される時間が半分しかないからでもある。昨日は、カミさんと一緒に朝から映画を観に行った。平日で地方の港町であるから、海を望む地区にあるシネマコンプレックスは、他に数人がいるだけだった。ランチをして、帰宅すると2時である。今日は、夕刻の4時から数理統計学の授業がある。昼前から研究室に行くと昼食を食べに出るのが面倒だ。「やっぱり食べてから行くか」と。気楽なものである。こんな風なのだから、毎日忙殺され、週末にも緊急招集がかかる旧友たちの半分しかカネをもらわなくとも文句はない。大学で暮らす人間は大なり小なり、似たような境遇である。

それでもリタイア後は、白老か洞爺湖の辺に隠宅を買って、いま暮らしている海辺の町と行ったり来たりするか、そんなことを考えている。薔薇でも育てながら隠居生活をおくり、たまには品評会に出品するのは悪くない。絵も描かないといけないし、リタイアしても結構忙しい・・・・・明らかに生活上の余裕がある。政府は、消費税率を引き上げようとしているが、それよりも本当は所得税を引き上げる、特に累進度を高めて、余裕のある世帯にはより多く課税する。本当は、その方がずっと公平である。資産課税も強化するべきだ。しかし、いくら「本当はその方がフェアで正しいやり方だ」と頭で考えるにしても、年金制度を国家直営のままで維持しながら、どこまで増加するかが分からない生活困窮者を余裕のある者たちが税で支える。それが聞こえはよいが公権力から強要されるとなると、「自分たちの家族はどうなるのか?」、そんな将来不安が先立つのは仕方のないことである。困っている人を助けて、私的な互助関係を築く方がまだマシである。

窮極的に言えば、国がなくとも、自分はいる。家族がいる。親族がいる。生き続けようと思う。日本国が崩壊しても、ここはどこかの領土にはなって、それでも我々人間は何とかして生きようと思うだろう。なくなるのは社会制度だけである。国家がなくなって身を切られるのは、自分の身体を考えるのと同じように日本を考えることができる立場の人たちである。それは、古くは王であったし、市民革命を経た国民国家では、国家は皆の共有財産だから、国民全体がそういう痛みを感じるはずだ。そういう話になるのだ、な。日本という国がなくなる場合、国を伝えてきた天皇家は悲しむだろうが、一般国民は、どうだろう?本当は<既得権益層>こそ、日本国の存続に誰よりも関心をもち、国益への感覚を磨かないと理屈に合わないのだが、必ずしもそうならないときもある。

実は、ヨーロッパ世界とドイツ国家。この関係について個々のドイツ人も迷いの心境にあるようだ。独誌"Die Zeit"に以下の記事がある。ドイツ連邦議会がスペイン救済を了承した点についてだ。
Merkel, die strategisch denkende Naturwissenschaftlerin, sollte aber vor allem folgendes beschäftigen: Der fehlende Zuspruch ihrer Abgeordneten begründet sich nicht in bösartiger Renitenz, sondern in einer massiven Verunsicherung. Die meisten Parlamentarier sind keine Finanzmarktexperten, haben sich mühsam in die Euro-Rettung eingelesen. Sie sind sich ihrer europapolitischen Verantwortung bewusst und daher in überwiegender Mehrheit aus dem Sommerurlaub zu dieser Sondersitzung angereist. Sie würden den Euro gerne retten, aber sie fühlen sich – wie auch schon vor den letzten Abstimmungen – völlig im Unklaren gelassen.
...Eine Frage beschäftigt die Republik seit Tagen: Haftet jetzt Spanien für einen möglichen Zahlungsausfall seiner Banken oder tut das Deutschland über seinen rund 30-prozentigen Haftungsanteil am Rettungsfonds EFSF? Gibt es womöglich Hintertüren, versteckte Klauseln in den Vertragswerken, die am Ende doch eine Vergemeinschaftung der Schulden in der Euro-Zone bewirken? Stimmen die Zahlen überhaupt? 
(Source: Die Zeit, 19.07.2012 - 20:26 Uhr)
ドイツの連邦議員はバカンスで旅先にあったのが、スペイン救済という重要案件がかかるから戻ってきたというのは、いかにもドイツの国情を伝えていて面白い。彼らもヨーロッパのために果たすべき政治的責任については自覚している。だからこそ休暇から戻ってきた。しかし彼らは金融財政のプロではない。メルケル首相が言うように義務があることは分かった。ユーロを守る責任があることも分かった。しかし五里霧中の中に放り込まれるような不安が先立つ。それは次の段落にある様に、ヨーロッパ全体の債務にドイツが共同責任を負わされてしまうような、何かの密約(Hintertür)が隠されているのではないか、そういう不安である。そもそもスペインを救うというが、数字のつじつまは合っているのか?あっているなら助けるが、もはや死に体であるなら一蓮托生は嫌だという不安である。

日本の社会保障制度は大丈夫なのか?困窮世帯はこれからどれだけ増えていくのか?解決可能であるのなら、日本国のためにひと肌ぬごう。ぬぐだけの余裕はある。義務があることも分かっている。しかし、どうやっても駄目なのだ。やりくりは出来ないのだ。そうであるならもう一蓮托生は嫌だ。国がつぶれるなら自分たちで生きていく方策を探す。不安が行動を決めていく点では見事に共通しているではないか。多くの人たちの義務感、責任感を現実に引き出すには、勝利への道筋、成功へのプラン、戦略的な議論を目の前でビジュアル化しないと駄目だ。日銀は市場との対話が下手であると何度も指摘されるが、政府もまた国民との対話が下手である。その下手が物事の停滞をもたらしている。「何が何だかわからないが、彼ならやってくれそうだ」、そんな訳のわからないビジュアル化がつまりはカリスマなのだろうが、これまた国民との対話の帰結の一つである。

2012年7月18日水曜日

官製「スケールメリットのおすすめ」をどう思う?

少し古いが本年6月20日の日経に『VWとアップルが変えた「経産省白書」』というコラム記事がある。政府が公表した「2012年版ものづくり白書」をそこでとりあげている。

ポイントは、日本の製造業の底力、<匠の技>、日本の技術力に自信を持ち続けてきた従来スタイルから、独フォルクスワーゲンと米アップルの経営スタイルを高く評価するという変化。日経はそこが面白いとしている。
製品の企画と開発に特化するアップルの経営モデルはもう有名なので省くが、VWと共通しているのは、設計の段階から車なら世界で数百万台規模、デジタル家電なら数億台規模で生産することを念頭に置く経営だ。世界経済をけん引する新興国ビジネスの要諦はとにかく「速く、安く」である。それを実現するにはつくり方を標準化しつつ、たくさん生産してコストを下げるに尽きる。(出所:2012年6月20日、日本経済新聞「ニュースこう読む」、中山淳史) 
この30年間、日本企業は顧客多様化に対応して、以前の標準規格・大量生産方式から多品種・少量生産方式へと生産管理スタイルを変えてきた。最近では顧客ごとのオーダーメイド製造方式を自社の強みと称するようなメーカーも現れているほどだ。

経済産業省も「それではいかん」と。「時代に合わん」と。そう言うようになった。

ただ官がいくら旗を振っても、この30年間進めてきた方向は間違っておった、逆方向へもう一遍戻れ、そう言われてもねえ、そんなところではないか。

それに<一点突破・全面展開>はリスクが高い。高度成長時代に大量生産方式で勝てたのは、日本がキャッチアップ途上にあったからだ。つまり現在の中国の立場と同じ立場で戦っていた。手本があった。だから一点集中でよかった。しかし今は違う。経営資源の集中投入が成功するには、チャンスを洞察して、天・人・時を手繰り寄せる経営トップの眼力が、最大のキーポイントとなる。<匠の技>ではない。<トップの天才>だ、勝利に不可欠なのは。人間の徳はともかく、才能に着目すれば、日本にも人材はいる。決して枯渇してはいないと見ている。しかし、それには会長、社長というか、欧米流にCEOと呼ぶ方が雰囲気が出るが、全責任を引き受けるだけの高い報酬と決定権限を日本企業、日本社会が容認しないと、人は出てこないだろう。高々1億円位の年棒で「私にやらせてください。責任はすべて引きうけます」、忠君愛国時代ならいざしらず、そんな人が湧くように続々と現れてくる理屈はない。変わり者しかいない、今の仕組みなら。リスクと責任に応じて、もっと所得分配に傾斜をつける。ズバリ<不平等>にする必要がある。でなければ、日本企業のイノベーションは生ぬるいペースでしか進まない。これだけは確実だ、な。 "The Winner Gets All"、この位の心意気でいかないと、大半の秀才取締役はリスクを回避しつつ、成功の分け前をのみ期待するフリーライダーになるだけである。

新井白石が自伝「折たく柴の記」の中で将軍家宣の述懐を記している。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才が薄い。まことに人を得るのは難しいものである』、天才的な勘定奉行である荻原重秀を弾劾する白石に対して徳川家宣はこんな風なことを言ったという。和を重視する日本的組織原理を維持する限り、似た者同士、相談をしながら合意を形成し、確実なところから攻める。それには顧客密着、シェア確保。働く分だけ職階アップ。いくら官が檄を飛ばしても、この行動パターンに本質的な変化はないと断言しておく。


社のあり方はトップが決める。そういう決め方にしようと決められるか。それを言わずして、ただVWやアップルを羨んでみてもねえ。そんな風に感じるのだ、な。大体、みんなで相談して「この分野は切り捨てて、この分野に全面集中しよう」と。そんな合意ができるはずはない。小生はそう思うのだが、どうだろう?

2012年7月16日月曜日

幸福度指標は世論調査よりはマシなのか?

第二次大戦後の経済政策の展開においてGDPという統計数字が果たしてきた役割は極めて大きい。戦前期の世界とは違う。いよいよ戦争となってから、ケインズが当時確立しつつあった国民所得統計に基づいて『戦費調達論(How to Pay for the War)』を書いたのは事実だが、全てのマクロ統計を整合的に推計する今日の国民経済計算体系(SNA)が整えられるようになったのは、時期を早めに設定するにしても1950年代以降、厳しく言えば1968年にSNA体系が国連から示されて以降のことである。

そのGDPは今は"Cold Number"と呼ばれるようになった。OECDは幸福度指数(≒Better Life Index)を作成するようになった。少し古くなったが英紙"The Guradian"のWEBサイトに以下のブログが掲載されている。

Better life: relaunching the happiness index

The OECD is relaunching its Better Life Index today - and has given us the key data behind it
• Get the data• Data journalism and data visualisations from the Guardian 
For an indicator we have to use all the time, GDP has very few friends. The idea of a single number to show a country's economic power came from US Nobel-prize winning economist Simon Kuznets - and that's what GDP is, a measure of economic output. 
What GDP misses is, arguably, more important than what it includes. 
Robert Kennedy argued that
the gross national product does not allow for the health of our children, the quality of their education or the joy of their play. It does not include the beauty of our poetry or the strength of our marriages, the intelligence of our public debate or the integrity of our public officials. It measures neither our wit nor our courage, neither our wisdom nor our learning, neither our compassion nor our devotion to our country, it measures everything in short, except that which makes life worthwhile
Even Kuznets agreed that "the welfare of a nation can scarcely be inferred from a measure of national income". 
This government - like many others - is keen to find new ways to compare nations, which is the motivation behind the moves to measure happiness and life satisfaction - and you can read more about these here. 
The Organisation for Economic Cooperation and Development - OECD - has been trying a new approach: asking people what they think is important, via its Better Life Index. (Source: The Guardian, 22 May 2012)
 OECDのオリジナルデータには日本の数字も含まれている。総括的要約をみると、
Japan performs favourably in several measures of well-being, and ranks close to the average or higher in several topics in the Better Life Index. .... In general, the Japanese are less satisfied with their lives than the OECD average, with 70% of people saying they have more positive experiences in an average day (feelings of rest, pride in accomplishment, enjoyment, etc) than negative ones (pain, worry, sadness, boredom, etc). This figure is lower than the OECD average of 72%.
幸福度指数には経済面や治安面、人生への満足感など幾つかの次元から抽出された数字が反映されるが、日本の特徴は上に記されているように"Life Satisfaction"(暮らしへの満足感)が低いところである。ただその他の次元において比較的高い数値を示しているので総合指数としては、日本人の幸福度指数はOECD平均と同じか、少し高いところにある。そうなっている。

ただ、以前の投稿でも紹介したように所謂<団塊の世代>は若かった昔からずっと暮らしへの満足感が他の世代に比べて低いという傾向が認められる。長寿社会・少子高齢化が進む中で、団塊の世代の特徴がより強く全体の数字に反映されるようになってきたという側面もある。"Life Satisfaction"の数字が低いという日本的特徴も年齢別に観察する必要があると考えられる。

× × ×

それはともかく、確かにGDP以外に多くの社会経済データがあり、それらは相互に相関しているが、完全に相関しているわけではなく、GDPに織り込まれていない、GDPとは独立の変動をする社会経済的次元が残されている。この点を否定する専門家はいないはずだ。特に統計学者なら「第1主成分の寄与率はせいぜい半分にも達しないでしょう」と、当たり前の表情をして断言するはずである。大体、金持ちの人が幸福で、貧しい人は不幸であると言えないことくらい、とっくの昔から分かっている事である。

しかし、カネがあるよりない方がいいですか?いまカネを使わないなら、いつか使えるようにとっておけばいいだろう。それが家族や地域社会に安心感をもたらし、その人たちに幸福感を提供できるのではないだろうか。日本人の不安、満足感のなさに、どこか欠乏している感覚、財政の将来不安がある、そんな側面も否定できないだろう。だとすると不安や欠乏感もつまりはカネの問題だ。カネの次元とは全く関係のない”純粋の幸せ感”とはどんな感覚なのだろう?

GDPは合計であって分配の是非はGDPから分からないともいう。しかし、こういう指摘には平等は不平等よりも良いという価値観が織り込まれているのだ、な。ならば問う。完全に平等な世界が最善なのか?それは唯一の独裁者に分配をゆだねる以外には実現できないはずだ。完全な平等が最善ではないとするならば、ではどの程度の不平等が最善なのか?それをあなたは知っているのか?全ての人が賛成するのか?要するに、論理的に解決不能な問題なのだ。所得分配は、資源の配分、技術革新の伝播など実体経済と裏腹の関係にある、その自然の流れをストップすることが正しいのか、善い事なのか?そういう風には、小生、どうしても思えないのだな ー もちろん、市場の独占的支配や交渉上優位な地位の濫用などフェアネスの問題は別にある、念のため。

確かにGDPは"Cold Number"である。GDPでは把握できない面が人間社会にはある。しかし、とらえられない面があるということと、とらえられない面をこそ優先するべきであるということとは違う。GDPとは関係のない側面をこそ注意しながら政府は<経済政策>を実行していかなければならない。それは、小生、かなり言い過ぎだと思いますな。カネとは関係のないスピリチュアルな次元は、実務家集団である政府ではなくて、癒しと信仰こそがふさわしい領域であろう。神にゆだねるべき救済といえる領分であろう。愛の役割であろう。正義が問題となる次元であろう。「信じるものは幸いなり」、懐疑と不信は欠乏感をもたらす。GDPより幸福のほうがなるほど重要だが、政府が幸福を増進できるかどうかとなると、小生、それは違うと思う。

人間、貧すれば鈍す。社会の閉塞は、要するにカネがなくなってきた、つまりはGDPが増えないことから発生している面が結構あるのじゃないか?善をなすにはカネがかかることが意外と多いのじゃないか。俗人集団である政府が解決できるのは、こういう俗な問題である。GDPと関係のない次元がどうなっているかを定期的に確かめることは、なるほど重要だ。内閣総理大臣たるもの世論調査くらいは時々は見てほしい。それと同じ程度には”純粋の幸せ感”なるもの、それもまた確かに重要だ。しかし、それが目的だ、政府は純粋な幸福を求めるべきだ。それを言っちゃあ政府もお困りでしょう。魂の救済を政府に求めても、声がかれて疲れるだけである。本日の結論はそういうことであります。


2012年7月15日日曜日

日曜日の話し(7/15)

先週は、勤務先が展開しているリクルート活動(=企業訪問)でナシオまで行ったり、札幌でヒアリングを行ったりで、結構時間をとられた。住んでいる所が海に近い港町だから、一回の外回りで半日以上はとられる。金額評価すれば2万円位を投入しているか。明日は海の記念日で授業がない。もしあれば大変だった。もし営業に時間をとられて授業の品質低下を招けば、外回りの営業コストは3万円に達するかもしれない。それに対して、志願者一人を発掘できたとして、一人につき授業料収入は在学期間合計で100万円である。その志願者一人が見つかる確率だが、営業50回に1回あればいいほうだ。とすれば、期待値は2万円。どうやら3万円を投入して2万円の収入を得る。そんな営業活動をやっているような気もする。

とはいっても関係者でなければ「そんなことはどこでも当たり前だ。贅沢言うんじゃない、愚痴をいうな」と、まあ、そんなところであろう。これまた組織重視=人間軽視という基本定理が当てはまる事例であろう。基本定理の系を書いておこう。人間重視=道理重視と言える。だから組織重視=道理軽視となる。道理軽視=理解軽視でもあるので、組織重視=理解軽視となる。これは、組織重視=命令重視という公理とも矛盾しない。

要は何が大事だと考えているかである。

× × ×

前の投稿でとりあげたクリムトもシーレも、第一次世界大戦前後、帝国末期のウィーン文化を象徴するような作品を残した。しかし、あれだな、同じ時代にフランスで生まれた絵画作品をみると、やはりオーストリアという国で育まれた文化そのものが、どこか閉塞状態にあったというか、一口に言えば「これを爛熟と言うのかなあ」と、そんな感懐を覚えるのだ。

同時代のフランス絵画を代表する人としてアンリ・マティスを挙げるのに反対する人はいないはずだ。マティスは1910年には既に有名な”ダンス”を制作している。


Matisse, Dance II, 1910

使っている色彩の数が極端に少ないことに驚くが、それぞれの色がピタリと決まり、これ以上に何を付け加える必要もないという点に更に吃驚する。クリムトの作品とは正反対であるが、20世紀芸術の新たな創造を可能にしたのは、(結果として)上の作品を作りえた感覚のほうである。ここの見方については、まず異論は出てこないと思うのだ、な。ある意味で、第一次世界大戦までのウィーン芸術は、ハプスブルグ王朝という基盤の上に形成された美的感覚が生んだものであり、であるが故に帝国の崩壊とともに芸術文化までもが更なる発展をやめてしまった。そんな風な所があると思うわけ。

オーストリアという敗戦国は、戦後混迷を続けたすえ1938年には独墺合邦(Anschluß)してしまうのであって、1918年には既に残骸国家になっていたわけだ。思うのだが、未来への成長を続けている国家は、たとえ軍事的に敗北しようとも、占領されようとも、必ずまた元に戻り、再び成長・発展を始める。もしそうならないとすれば、敗北する前から既にその国は死んでいたのだ、と。そう思ったりもするのだ、な。

フランスもオーストリアも新興プロシアと戦争をして敗れた点は共通しているが、仏・墺この二国、その後の歩みが全く異なってしまった。負けたことをきっかけにして、フランスでは無数の新しい芽が生まれ出た。新しいタイプの創造活動が、文字通りの巨大な津波となって押し寄せて、そのエネルギーがそのまま現代のフランス文化を作り出していった。そこじゃないかと思う、見ないといけないのは。

太平洋戦争に敗北して、日本はGHQ製の輸入憲法を受け入れ、戦前とはずいぶん国の形が違ってしまったが、それがこれだけの期間、国民の間に定着し平和裏に続いているということ自体、上のロジックからいえば、戦前期・明治体制は根無し草のような国家、というかどこかで既に枯れていた、まあ権力だけが素のままに動いていた骸骨国家であったのだろう、と。そうも言える気がする。夏目漱石は、作品『三四郎』の中で『(日本は)滅びるね』と、暗闇の牛たる先生に言わせている。さすがに漱石の社会眼は大変鋭かった、よくぞ言い切りました。そうも思うわけだ。

× × ×

マティスは元々はフォービズム(野獣派)の一人として活動を始めた。


Matisse, Portrait of Andre Derian, 1905
Source: Same as above

この人物はマティスの盟友であるアンドレ・ドラン( ANDRE DERAIN)のことか?ミスプリか?それとも別にDerian氏がいるのかな?ちょっと確認しないといけない。

シーレが第一次大戦中に前の投稿でとりあげた"Vier Bäume"を描いていた丁度その頃、マティスは下の作品を描いていた。


Matisse, Bathers on the River, 1917
Source: Same as above

芸術活動は美を追求するものだが、その美は自分とは関係のない<規範>としてあるのではなく、自分の心の中にある。自分の感情の中にある、その心の動きを他人の目に見える作品として表現するとき、その作品の中に他人は人の感情を感じ、思想を感じ、美を感じる。上の作品はそんな時代の理念をストレートに表現しているではないか。シーレとは別の意味で。

第一次世界大戦の犠牲者は、戦死者だけで1000万人、戦傷者が2000万人。行方不明者が800万人。人類にとっては文字通り<巨大>な災禍だった。上のマティスの作品は、そういう時代から今と言う時代に伝えられたメッセージである、というかあり続けている。帝国末期のウィーン芸術が作った美にそうしたメッセージはあるだろうか、むしろ最後に開いた花であった。これまた一つの見方かもしれない。大輪の花であった点は、ハイエクもシュンペーターもポランニーもそうだったわけだ。

2012年7月13日金曜日

バブルとその後始末が大難問になるのはおかしいじゃないか

ずっと以前、まだ日本の土地バブルが燃え盛っていた時代、某官庁の経済統計関係部局で仕事をしていたことがある。

保有資産の評価額が上がれば、購買力が増える。経済学ではそれを<キャピタルゲイン>と呼ぶ。地価の上昇で1980年代末には1年間の名目GDPを超えるほどのキャピタルゲインが全国で生まれていたように覚えている ― 敢えて数字を確認するほどのことでもないが。

クラブに所属していた某通信社の記者とこんな会話をしたことがある。
記者「キャピタルゲインで日本が潤っていると言っても、土地を買う人からみれば上がっているわけでしょ。持っている方のプラスと持ってない方のマイナスを合わせればプラマイ・チャラですよ。土地の面積は同じだもん!キャピタルゲインで日本の国富が増えたなんて、意味ないんじゃないですか?」
小生「その一定の土地が生み出すと期待されている国民所得がこれまでの予想より大幅に上がった。つまり国際社会で日本の国土が高く評価されるようになったのですよ。これは、やはり日本が金持ちになったってことでしょ?」
記者「日本を売るなんてしないわけよ。それでほんとに日本が得したわけ?」
小生「得ですよ。評価されないより、評価される方がいいに決まっているじゃないですか。」
記者「う~ん、とは言っても、家を買うのは、大体、日本人だからねえ、ほとんど。買う人にゃ困るんだよね。高い土地を買えるのは外資とかでしょ。これで日本は豊かになったってことになるの、ほんとに?そりゃあ、おかしいよ。」

キャピタルゲインの話は、土地だけではない。株もそうだった。株が上がれば持っている人は富裕になる。しかしこれから株を買おうと思っている人にとっては高値になる。そもそも株は証券であり、それ自体が何かの富ではない。その価値が上がるというのは、株に対応している企業という実態が利益を生み出す期待、配当の増加期待などがあるからだ。要するに、予想なのだな、株価を決めているのは。予想が評価額を決めているという点では土地もそうだ。

株価バブル、土地バブルの崩壊は、つまり<予想の崩壊>である。土地バブルが崩壊しても、土地の面積自体が減るわけではない。株価バブルが崩壊しても、家計・企業の実物資産が失われるわけではない。実質的には、何がどう増減したわけではなく、すべては予想の変化とそれに基づく金銭貸借の混乱。100%、ヒューマンな側面で混乱しているわけだ。そう割り切れば、割り切れなくもない。

× × ×

景気循環論という授業が経済学部には必ずあった ― 以前は「経済成長論」という授業科目もあった。景気には好況から不況へ移行する下方転換点と不況から好況へ移る上方転換点がある。供給ボトルネック、過小消費、利潤率の低下など理論的に説明が容易なのは下方転換点の方であって、不況がなぜ終わるのかについては、(今のところ)うまい説明がない。小生が聴講したのはそんな話であった。

今はマクロ経済の教え方が昔と様変わりになった。それでも、時々、バブル崩壊を放っておいたらどうだろうと思うこともある。人間の予想が崩壊しても、金銭貸借がきれいさっぱり踏み倒されてチャラになっても、それは元の状態に戻るだけで、実質的には何も貧困にはなっていない。ま、無駄な投資をして使わない施設ができてしまった。カネを借りてそのまま踏み倒した。モラル的な面で許されないことはある。それはあるだろうが、いまあるものは転用、流用すればいいでしょ!なくなるわけじゃない。それにバブルの恩恵は、大なり小なりみんな受けたわけだ。大体、<火事と喧嘩は江戸の華>と言うでしょ。焼けたほうがいいこともある。焼けてなくなるから、町の再建特需が出てくるってもんだ。たまには焼けないとね。いいことだって出来ねえよ。まあ、そういうロジックであって、これをシュンペーター流には<恐慌=浄化説>という。

収束プロセスで心配するべきは、金銭貸借不履行、賠償義務など財産権に関する裁判事務の効率だけである。裁判事務が十分効率的であれば、そもそも金融バブルとバブル崩壊を自然の流れにまかせても、国として、世界として困る問題ではない。これは余りにも乱暴なロジックだろうか?公的資金による銀行救済とか、救済するなら責任を追及せよとか、そこまで政治が経済の面倒をみないといけないか?どうせ見るなら全部見ろ。そういうことであります。素朴な疑問である。もしどんなに熱が出ても身体は大丈夫だと確かめられているなら、発熱は放っておいてよい、むしろ積極的に自然治癒にまかせたほうが良いに決まっている。発熱は身体の防衛反応なのだから。マクロ経済もそれと同じだ。これもまた米FED流の<後始末戦略>であるには違いない。

2012年7月11日水曜日

歴史の見方と皇位継承の関係

日本史を勉強すると多数の天皇の名前が一貫して出てくる。有名な存在は誰だろう?まずは後醍醐天皇は誰でも知っているか。明治天皇もそうだな。それから天智天皇とか天武天皇は?100%「覚えてます」とはいかんだろうねえ・・・

日本には天皇が飛鳥・奈良・京都にいて朝廷なるものをしいておったから、歴史の主要人物であり続けたのは当然でもある。しかし副作用もある。歴史の大きな進展を批判的にというか、「あれは間違いだったよね」という結論もあるかもしれないという視点で、振り返る事を難しくしている ー 多くの人は「そんなことはもうありませんよ」と言うだろうが、近世・近代が絡んでくると声高に常識を真っ向から否定する意見は述べにくいと(小生は)思いますなあ、いまでも。

現在の皇位継承範囲を広げるために、戦前の宮家で戦後皇籍を剥奪された家の末裔を皇族復帰させようという案が根強くある。表向きは何百年も遡らないと血縁関係はないのですと。そういう理由付けがされているのだが、それでも戦前は宮家で皇族だったのでしょう?そう聞かれれば、それは確かにそうなので、「そうですね」と認めるわけだ。憶測するのだが、これは歴史評価にも直結する事柄じゃな。戦前の伏見宮、閑院宮などなど、多くの人物が皇室の藩屏にならんとして軍を志し、軍内で実績を積み、皇族の立場で帝国陸海軍に隠然たる影響力を持ったのは周知のことだ。そして昭和天皇の意志に必ずしも沿わずして、軍の意向を正当化する役割を演じた。そういうこともあった。ま、はっきりいって、戦後に離脱した旧皇族を元の地位に戻すのは嫌だ。それが本音なんだろうねえ、そんな風に感じる事もないわけではない。第一、極右勢力にまた担がれるかもしれんし、ね。悪くすると国がひっくり返ってしまう。

そんな目で日本史を振り返ると、じゃあ明治天皇はどうなんだ、と。明治維新はどうなんだ、と。日清戦争は?日露戦争は?きりがないわけだな。小生は個人的には太平洋戦争に至る道は明治という時代、明治天皇の「治世」に根ざしていると思っているが、そんなことをアカラサマに論じる事が今の日本社会で、外国人ではなく、日本の学者に可能だろうか?容易だろうか?100%完全に賢明な統治をした時代など一つもないわけだ。そこを分類して批判する作業をしないといけないのだが、最初から明治維新は救国の大事業として不動の結論を定めていると、やりにくいわけだ。そしてそこには明治天皇崇拝感情が根っこにあり、やっぱり引いてしまうのじゃないかと思うのだ、な。その延長に太平洋戦争を終わらせた昭和天皇の苦悩と英断もまた尊重するべき民族的記憶と化している。これがいま日本人が合意している歴史評価であるし、これは一つの立場でしかないとも思うわけだ。

もし万が一、そんな歴史的発想も混じっていて、それが皇位継承論議に影響しているなら、これはいかにもまずいやり方だ。ま、そんなことは絶対にないとは思っているが。

中国では新王朝が旧王朝の歴史を編纂する方式を一貫してとっている。それも革命後おおむね100年程度が経過してから歴史評価をまとめ始めることが多かった。急いだ場合は改訂稿が編まれた。中国の前の支配者は清王朝で1911年の辛亥革命から100年がたったばかりだ。原稿としては既に1920年代に書き上がった『清史稿』、共産党政府、国民党系の台湾政府が編集した『清史』がある。ここ400年の中国の歴史をどうみるか。当の中国人もまだ決めかねているわけだが、ごく自然なことだと思う。日本の歴史も同じ事である。明治維新の評価は永久に決まっていると断定する必要はない。戦前期まで存在した旧宮家の歴史評価をいま決める必要は全くない。それは100年後の日本人に任せるべきであろう。

歴史評価は未解決で棚上げしたまま解決できるところから先に解決するのが合理的である。だとすれば、日本の歴史を通じてずっと皇族であった家門は、戦後の皇室宗家の民主化の流れと比較対照すれば、やはり事実として今でも皇族であると認識するのが合理的であろう。日本国憲法の改正問題もそうだが、日本では国の形を議論し始めると必ず天皇・皇室が関連してくる。歴史評価で激論になる。これは日本国にとっては非常に不幸なことである。その不幸のツケは日本の国民が払っていることを忘れるべきではないと思う。