2017年9月18日月曜日

暴言議員・豊田女史のインタビューで思う

暴言暴行で世を騒がせ自民党を離党した豊田真由子議員に民放のニュースキャスターMがインタビューしたというので注目されている。

今回は秘書への暴言暴行とはうって変わり、スッカリと萎たれた反省ぶりで、これが録音された人物かと思われるほど、声調はまったく別人である。

インタビューの内容自体については多くの意見が既にネット上にアップされている。改めて付け加えなくともいい。

ただ思わず考えてしまったことがあった。

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豊田議員は、繰り返すまでもなくエリートである。有名女子高校から東大法学部に進み、中央官庁の官僚となってから、米国・ハーバード大学に留学するなどを経て、衆議院議員に当選した。極めて聡明で、昔流の表現を使えば「目から鼻に抜ける」ような大秀才、いやいや超才媛であったからこそ可能だったキャリアである。そんな人だからこそ、暴行暴言が世間の一大テーマになったわけでもある。

悪い意味で『命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること』という孔子の言が当てはまってしまったわけだ。

しかし、よく考えてみると、オリンピックの金メダリストが不祥事を起こすのだから、勉強エリートがトラブルを起こしたくらいで驚くことはないのだ。理屈はそうでござんしょう。

T女史の場合、「頭がいい」というその点こそがどうにも好感を持てない大きな短所として働き始めている。これが厳しい現実として指摘できる。

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少し敷衍しよう。

下の愚息に何度も言っているのだが、人の長所は即ちその人の欠点であり、欠点は即ち長所である。たとえば<大胆>な人は同時に<鈍感>な人物でもあり、より大胆であればあるほど一層鈍感にもなりうる。鈍感であるという欠点を表面化させないためには繊細である必要があり、そうなるべく努力をすれば本来の長所である大胆さが消えてしまうのだな。理想は「大胆にして細心」だが、言うは易しだ。他の性格もすべて同じである。

聡明な人は変化や違いに敏く、状況変化に即応してとるべき対応が直ちに分かるものである。頭の回転が生まれつき速いのだ。かつそんな人は記憶力が抜群に良い。それが普通の人間集団におけるトラブルの中では最大の欠点となりうる。前にも投稿したことがあるのだが、小生の田舎でいうところの「キョロマ」になることが多いのだ、な。

大成功するための必要条件として大阪では三点が強調されている。誰でも知っているそれは<運・鈍・根>である。頭のよい人物は鈍な人物を演技できないものである。上手に演技しようとする努力そのものが、鈍な人物ではなく賢い人間である事実を浮かび上がらせてしまう。

故に、聡明な人は概して大成功には至らない。これが昔からの経験則のようなのだ ー 小生の亡くなった父もその轍を踏んでいたように(今にして)思ったりする。

江戸幕府の名老中であった松平伊豆守信綱は「知恵伊豆」と呼ばれるほどの秀才であったが、人望薄く、「才あれど、徳なし」と評されていたそうだ。小姓をつとめて以来ずっと仕えた将軍・家光が薨去したときに殉死はせず(4代家綱を託された故であるが)、そのため「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と庶民からは揶揄されている。

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非常に頭のいい人物というのは、使われる人物であってこそ輝くことが多い。尊敬や人望、器の大きさとは無縁になりがちだ。「頭の回転が速い」という素質単独ではせいぜい歯車一枚が担当できる範囲のことしかできない理屈だ。大成功に至るにはもっと必要な才質がある。

知恵伊豆や一休さんのように「頭の回転が速い」、「頭がいい」ということが真に求められる仕事とは一体なんだろうか、よく考えると分からないのだな。小生の身近には研究者が多数いるが、研究者としての成功は「頭より性格」、これが経験則だ。やはり、どう考えても人の手足になって指示された仕事を正確かつ速やかに進めるときではないか。それとも当意即妙が求められる芸能人だろうか・・・。頭の回転が速いことは、足が速いのと似ていて、あくまで個人の能力なのである。走るのは一人で走る競技もあるが、仕事は一人では中々できない。頭の良し悪しはその人個人の才能なのだ。そういえば東大生の芸能人化現象がさいきん顕著に進んでおるなあ・・・。ま、これは別の話題。

今日はどうも結論らしい結論はありそうもない。が、上で「考えてしまった」と書いたので一応全部書きとめておく。

一生懸命に受験勉強をすれば普通の人でも解答可能であるような特定のパターンの問題を<制限時間内>で解くような筆記試験は、頭の回転の速さを測定しているわけであり、まったく人材選別に無益とまでは言わないが、問題解決能力を問うものではなく、選別手段として高い精度をもっているとは言えない。

筆記試験では<真に解答困難>な問題を出題し、体力の限界を問うほどの長時間を与えて解答させる方式の方が選抜手段としては有効だと思う。評価は主観的にならざるを得ない。だからこそ、評価を担当する側にこそ一流の人間を配置するべきだ。中国伝統の科挙はその方式であった ー それでも出題パターンは無限にはないので受験勉強の巧拙で合否が決まるところがあったと何かで読んだことがある。

厳しい勝負の世界で生きているプロスポーツでは、練習を重ねいま身につけているスキルより、「基礎」と「伸びしろ」をみて選手を選び育てているはず。これはどの世界にも当てはまることだ。

こんなことを改めて考えてしまった。ま、月並みなことである、な。

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