2019年10月12日土曜日

雑感: またモーツアルトをよく聴くようになって

高校生の頃からモーツアルトが好きになった。どの先生であったか思い出せないが『君たちの年齢でモーツアルトが好きにになるのは私はあまり感心はしないナア』と言っていたので、その頃の小生、17、8歳の我鬼にしては余程ひねくれていたのだろうと思う。

その後、成長してからはモーツアルトから疎遠になっていたが、どうしてだか最近になってまたモーツアルトに戻ってきた。多感な思春期より老いたる駑馬になった今になって寧ろ微細な箇所のニュアンスが鋭敏に感じとれるようになった感覚がするのは実に不思議である。昔と違って管弦楽をよく聴くようになっている。モーツアルトが若かった時分の作品に遡って聴くことも増えた。母の生前に聴いていたレコードは全て傑作との評価が定まったピアノ曲である。一人で下宿をしていた大学生の頃はオペラが好きだった。このところよく聴いているモーツアルトは母は一度も耳にしたことはないはずだ。モーツアルトは時に現代の映画音楽作曲家も顔負けするようなポピュラーな旋律を創っているので母が『これなんて言うの?』と聞くのに対して小生が『これモーツアルトだよ』と応えると驚くに違いない。とはいえ、いま聴いているのは、どちらかといえば地味で、多くの人は知らず、小生が勝手に探し出してくるような作品が多い。

掘り出しては悦に入るのが年をとってから好きになってきたのかもしれない。時間がだんだん出来たことの単純な表れかもしれない。人の行動変化の背景は案外に単純なものだ。

ヴィオロンと ヴィオラのごとし 歩み来し
   夫婦二人の  せい のえにしは
幼少の頃から戦中戦後を経て生きぬいた父と母の人生は必ずしも幸福な期間が長くは続かなかったと子である小生は思っているのだが、それでも父と母は一様に不幸であったわけではなく、むしろ幸福感が勝ったときも家庭では確かにあったのである。

『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』(K.364)を聴きながら両親の人生を思い出して上の一首が頭に浮かんだのだが、ひょっとすると小生とカミさんが歩いてきた道にも当たっているのかもしれない。

それにしても、昔の高価なLPからCD,レンタルCD,デジタル音楽サイト、そして無料のYouTubeと変遷してきた音楽世界の進化は驚異である。

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