2024年10月24日木曜日

断想: これが世界観の深化になっていればイイが・・・

ちょっと大きな主題に触れたいので前処理作業として投稿済みの原稿から要点を抜粋しておきたい。

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2011年9月19日付けの『経済発展と民主主義』ではこんな事を書いている:

アジアと西洋が歴史を通してシーソーゲームを繰り返しているというが、いずれかより民主主義的であった側が他方を凌駕した。そんな法則はないようである…

小生自身は、その社会が民主主義であるかどうかは、経済成長にそれほど関係ないのじゃないかと思っている - 思っているというだけのことだが…

社会の産業構造、職業構造。その時代を主導するリーディング産業にとって最適である生産システムが、強い共同体を作ってしまうのかどうか、これらが民主主義思想のポジションに反映しているような気はする。だから、小生はこの問題については、マルクスと全く同一の目線をとっているわけであり、正に「下部構造が上部構造を決める」。そう思っている…

子孫は子孫で、一番やりやすいように社会を変えていくだろう。それは民主主義の廃棄、王政の復活、帝政の復活ですらも十分ありうる。そう思うのだな。


相当の唯物論的な見方だと思うし、基本的には以前のままの歴史観、社会観、人間観を持ち続けている。

ところが、段々と深化、であれば好いのだが、単なる変化かもしれない。がともかく、理解の仕方が変わって来たのだ、な。


ごく最近になって投稿することが増えている「浄土思想」だが、2016年7月27日に『浄土思想・他力本願』を標題にこんな事を書いている:

他力本願の最大のハードルは『阿弥陀如来はどこにいるのか?存在していないことは歴然としているではないか』、そんな疑問をどう解決するかだろう ― もちろん仏教思想を大学で専攻すれば、この辺は、当然のこと、講義も聴き、自分でも勉強して消化しているに違いない。が、そんな時間は持ってこなかったし、統計学が専門の小生にはこれからも持てない時間である。…

最近になって、だんだん理解できて来たので覚書にしておきたいのは、心の救済を願う阿弥陀如来は自分の心の中に潜在している特定の意識を指すのだろうという点である。
 
意識の中に存在すると考えれば、他力本願という思想は理路一貫する。要するに、救いとは病気を治してもらうという外面的な治療ではなく、悩みや不安からいかに解放されて平穏な心の状態にいられるかというそんな問題なのだろう。…

…心の救済を議論する場合は有効でも、人間の意識の外には、つまり客観的実在を対象として、阿弥陀如来やら観世音菩薩、勢至菩薩を思い浮かべても、もともとそれは自然科学的には無意味なことである。意味があるのは人間の意識の中においてのみである。そういう結論になってしまう…
 
…しかし、どうやらそうでないのかもしれない、と。
 
人間の意識をいまある状態に進化させたのは、他ならぬ客観的に存在する「世界」そのものである。だとすれば、人間の意識という一つの内的世界に存在するものは、すべて外側に源をもっていると考えるのがロジカルであろう。
このところ書いている内容の芽が8年も前にもうあったのかと我ながら驚いている。


もともと『万物は流転する』というギリシア哲学の名句が好きだったし、それは『平家物語』の「諸行無常」に相対応するものだとも思ってきた。

2016年12月26日には『時間と存在、プラス流転』という標題でこんな風に書いた。
物事は変化して初めて知覚に触れるものである。「存在」といえば、一定不変の物と考えがちだが、周囲の世界が一定不変で、全てのものが一定の場所にとどまり、同じ状態を維持するなら、私たちはそれらを認識することはできないだろう、と小生は思うのだ。
 
そもそも「生命」は、変化の相に存在することは明らかだ。生は変化であり、一定の状態への復帰は死を、いや死後の解体プロセスの行きつく先を意味している。
全ての物質が一定であれば、電子の運動も分子の運動もなく、我々自身の感覚器官も機能を停止するという理屈である。つまり「命」というのは、そこに在るものというより、実際にそこに存在しているものが変化する現象だ、と。命が現象なら、命の上にあるはずの自分という存在も自覚という意識もまた現象だろう、と。本当はないのだ、と。デカルトの「われ思う、故に我あり」というのは少しおかしいのではないか、と。こんな風に考えていた自分を思い出す。

やはり唯物論である。物理学でいう「要素還元論」に他ならない。


2018年9月23日には『心の世界と唯物論』を標題に投稿している。

西洋哲学では、物質と精神とを二分する思考を繰り広げてきた。

小生は、ずっと以前にも投稿したように、下部構造が上部構造をすべて決めていくと基本的には考えている。この点では、唯物論者であり、やはりマルクスと同じであるともう一度反復して言うことができる。

家族のあり方、地域社会のあり方、国家の役割、男女や上司部下といった人間関係のあり方(=セクハラ・パワハラ等の認識のしかた)、何が正しい社会かという思想・常識などは、すべて人間社会の生産プロセスの構造が決めてしまうと考えている。「生産」とは、人間社会が生きていくための現実そのものである。要するに、生きていくために都合のよい社会をつくり、国をつくり、法をつくり、人間関係をつくっていく、と。そう考えている立場に変わりはない。
 
人は自分たちが生きていくのに都合のよい思想を選ぶか、選べないときは発明する。  
こういうことだと思っている。倫理や常識はもちろんその時点で是とされる思想を反映するものである。

変わってないネエ…。そう確認することが出来る。


 2020年代に入ると、2021年6月6日付けで『新実在論と普遍的価値の存在?』を投稿した。

ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルを読んだのが刺激になったようだ。この時点ではまだこう考えていた:

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。

マルクス・ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』でこうも言っているわけだ。

自然科学によって研究できるもの、メス・顕微鏡・脳スキャンによって解剖・分析・可視化できるものだけが存在するのだというような主張は、明らかに行き過ぎでしょう。もしそのようなものしか存在しないのだとすれば、ドイツ連邦共和国も、未来も、数も、わたしの見るさまざまな夢も、どれも存在しないことになってしまうからです。しかし、これらはどれも存在している以上・・・

これに対して、小生は次のように考えていた。

人間社会における倫理的価値を論じるなら、蜂の社会、蟻の社会に存在している倫理的価値を考えてもよい。おそらく、(人類とは無縁だが)そんなものがあるのだろう。ひょっとすると、蟻や蜂という種族に埋め込まれた遺伝的特性かもしれない。だとすれば、何かが存在していて、そんな行動特性が現象として現れている。こう考えられる。もしそうなら、蟻の倫理、蜂の倫理という言葉で指示される客観的存在があることになる。が、それは蟻の特徴、蜂の特徴であって、人間の特徴ではない。また反対に、人間社会の倫理的価値は蜂や蟻という生物には意味のない事柄である。時空を超えた普遍的価値としてあるのではない。

 今でも、上の議論を無意味なことと全面的に棄却してよいのかと言われると、やはり主張したい気持ちはある。

世界に存在しているのは、物言わぬモノだけである。こう考えている。それ以外の人間的な思考の結果は、人間にとってだけ意味がある。そういう思考回路である。

2022年9月22日には『生命と非生命、唯物論で決まったわけじゃないか……逆もある』と投稿したが、ここで新しい芽が出てきているのが確認される。

よく物質と精神の二つに分ける議論をするが、同じ程度に意味のある問題は生命と非生命との区分だと思う。その生命だが、明らかに非生命の物質から生まれたものであることは自明である。はるか昔には、生命の根源には「生気」があると考える「生気論」が主流を占めていたが、現在は生命現象も特定の化学反応サイクルに帰着できる化学現象であると理解されている。大雑把に言えば、生命も非生命と同じ<物性物理学>の研究対象であると言っても言い過ぎではなくなってきた。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。

これは徹底した唯物論になる。ところが、その後では見方を反転させて、以下のようなことを書いている:

……モノの世界から単細胞生物が自然に発生し、それが多細胞生物に自然に進化し、更に多種の動植物が分岐し複雑化してきた。そして現時点においては、その最終段階として知的生物としての人類がある。そうなるべくしてそうなった性質が、最初から物質の属性として存在していたということだ。が、これを逆向きに考えると、そんな進化プロセスが実現する可能性が最初からあったことになる。つまり、人類という知的精神を備えた生物がこの世界に登場する可能性がそもそも最初の時点においてモノの世界にはモノの特性として潜在していたという理屈になる。

こう考えると、人間がもっている知性の働き、たとえば<論理>という推論の道具、<美>や<善>といった価値概念も、様々の抽象概念も、それが人間知性によって抱かれる前から可能性として存在していたという理屈になるのではないか。

となると、長い進化の歴史も、モノの属性が順々に現れてきたと理解するよりは、最初から存在していた抽象的概念が可能性から現実へと具象化される過程そのものであった、と。そう理解してもよいというロジックになる。そもそも不可能な事は不可能であり、可能なものはいつかは現実の事になる。こうなると、正にヘーゲルである。

というか、《神》という概念ですら、その概念に対応する何かが最初から《モノ自体》の中に潜在しており、いま地球上に現れた人類がそんな概念をもつに至っているのは、知るべくして知った、と。決して根拠のないことではない、とすら言えそうだ。

ヘーゲルは宗教を哲学化したと言われるが、正にその通り。唯物論を逆向きに考えると、神の実在を含めた宇宙論になってしまったわけである。

唯物論に立てば永遠の過去から現在に至る因果論で世界を観ることになる。反対に、逆向きに考えると、宇宙創成時点で実在した神が人間知性の神という概念に具象化され、これから永遠の未来にわたり、当初から潜在していた全ての可能性が宇宙を作って行く。最初の目的が成就される過程として時間を認識する。こんな目的論で世界をみることになる。

こういう発想が(小生にとっては)新しい理解の仕方になったのは明らかだ。

上の投稿が基礎になって、昨年3月2日の投稿『西洋的な二項対立の思考パターンを一度捨ててみてはどうか?』になった。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。

再度、上の6番の投稿を引用している。
前の投稿は、唯物論のようでもあるし、逆に考えると唯心論のようでもある、と。要するに、西洋的な二項対立思考では見えなくなる面がある。そういうことだ。

西洋流に「物質と精神」を分けて考えるより、両方を一体のものとして理解する方が真実に近い。そんな世界観が出てきている。

まあ、

その後、現在に至る

と言ってもイイ。

最近になって<宗教>が話題になることが多いが、西洋的な自然科学的思考に頭から足まで染まってしか世界を見れなくなると、宗教とか、信仰という人間行動を的確に理解できないはずだ。

世間には、自分自身は科学の専門家ではないが、科学を盲目的に信頼する《科学主義者》が多い。

科学主義者は、多分、唯物論的な世界観をもっている(に違いない)。全ての現象は因果関係の枠組みで理解する。つまり結果にはすべて原因があると考える。物質界のある原因が先にあって、観察可能なある結果がメカニックに生起するのであるから、そこに理念や価値は不要である。過去から未来へ物事は自動的に、法則に沿って、進行する。人間もそのはずである。社会もそのはずである。科学主義はまず第一に《没理想的》にならざるを得ないのだ。

仮に、こういう理解の仕方で解答が得られない事柄があるとすれば、それはその事柄が「非科学的」であるからだ、と。そんな仕分けになる。しかし、人が道路を横断するのは、信号が青になったことが原因ではない。ケガをしたくないという目的が先にあり、だから信号が青になってから渡るのだ。因果関係ではない。受験勉強、経営努力、全てそうである。だからと言って、人間の行為が非科学的であるとは言えない。

これでは本質に迫れない。 因果関係ではなく、目的論的に世界を観る方が理解が深くなる問題もあると考えるようになった。

そんな場合、科学ではなく、哲学が助けになるし、でなければ宗教的直観に基づく議論をする。これもまた、そもそもそんな議論をする属性が人間知性には最初から織り込まれていたからである。理屈はそうなる、というのが現在時点の小生の立場だ。



 

















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