今日の標題は、小生の感覚では、矛盾に満ちているのだが、日経に面白い記事があったので本日の主題に選んだ。
以前にも何度か投稿したのだが、19世紀は「科学の世紀」、20世紀が「戦争の世紀」だとすると、21世紀は予想に反して「宗教の世紀」になるのではないかと、(今は京都に帰ってしまったが)大学で親しかった同僚とよく話したものである。
実際、この本ブログでも<宗教 時代>でブログ内検索をかけると、結構な数の投稿歴が出てくる。
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本日の日経だが安倍元首相の一周忌に合わせての記事だろうか、「宗教二世」の苦悩について記されている。
「教団の集会中に手遊びをしていると服を脱がされ、父に革のベルトでムチ打ちされた」。ある宗教団体の「3世信者」として育った夏野ななさん(仮名、30代)が幼少期の体験を明かす。……
祖父母や両親が信者の家庭に生まれ、集会には幼い頃から週3回ほど出席するように。「世間の悪い影響を受ける」との理由で幼稚園や保育園には通わせてもらえず、教義に沿わない学校行事は参加が制限された。警察へ事情を訴えても家に送り返されるだけだった。
その後、「逃げ出したい一心」で教団と家族から離れた。今年4月、宗教による児童虐待防止を目指す一般社団法人「スノードロップ」を発足させた。
Source:日本経済新聞、7月9日朝刊
URL:https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20230709&ng=DGKKZO72609420Y3A700C2CM0000
一口に「研究」と言っても、色々な度合いがあって、研究者は千差万別である。研究に没頭して家族を省みない人もいれば、家族との触れ合いを大事にして毎日定時に帰宅する人もいる。そして、一流の成果を出すのはほぼ確実に研究に没頭する人である。その研究者の家族が「ネグレクトの苦悩」を訴えるとして、社会の側は何か言えることがあるのだろうか?
宗教的な信仰活動も「熱心」と「狂信」の違いがある。おそらく「薄信」、「浅信」に止まれば、その人の信仰が家族に及ぼす苦痛はゼロに近いだろう。
何ごとも中庸が大事であるのは永遠の真理だと思うが、全てに中庸ということは、本気になって取り組む人生の目的を持たないということではないか。
自分の道を歩むという気持ちは、大なり小なり、配偶者を巻き添えにし、友人の人生も左右するものだろう。
小生は、好きな事を好きなようにやってきただけであるが、そんな小生について来たカミさんは、よくぞ着いてきてくれたものヨと、この歳になって感動、というより呆れる気持ちすら持っている。
小生: おれのどこが良くて、一緒について来たんだよ?
カミさん: 途中で引返せないでしょ!
小生: よかったのか?
カミさん: しょうがないじゃない。
小生: 迷惑をかけたな。
こんなヤリトリをどこかの時点でするのではないかと予想しているのだ。カミさんが「ずっと辛かった」と訴えれば、小生にも落ち度はある。そう思っているのである。
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こんな問題意識を持っているので、上の記事を読んで思い出すのは「マゾとサド」という言葉である。
自分独りが修行するにも「苦痛」を耐え忍ぶ荒修業がある。その苦痛は大悟に至る道筋にあると思えばこそ意義があると本人は考えている。自分にとって善かれと思ってやっていることを家族にも奨め共にやろうとするのは時代を超えて普遍的に行われていることである。そんな中で、理解できず苦痛ばかりを感ずる子供たちは「虐待」されているという判定になるのか?
まあ、なるのだろうなあと、今は思うのだが、では家族は独りで荒修業をする人には付き合わず、分からないものは分からないと突き放すのがよいのか、そんな愚かな事は止めるように説得する方がよいのか。何をすれば正しいのかを直ちに断言する理屈はないと思うがどうだろうか。
親鸞が『歎異抄」でも語っているように、人間は状況に応じて何でも行ってしまう存在なのである。苦痛を耐えることは愚かとか、苦痛を与えるのは悪であるとか、そんなヒューマニスティックな言明で割り切れるものではない。
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検索結果の中には、こんな風に述べている投稿もある。
つまり、(宗派によらず)宗教に関連した事件、変事を防ぐには、不安をなくし希望に満ちた活力ある社会にするのがオーソドックスな近道である。真っ当なメディア企業なら、真にプラスになる情報を提供することに努力してほしいものだ。これが本日2番目の話題の結論であると言ってもいい。
時代を問わず、国を問わず、西洋でも東洋でも財政破綻、政治不安、宗教組織の拡大は三位一体で見られ、同じ現象は幾度も繰り返され、中国では王朝交代にもつながることが多い。
しかしながら、別の投稿ではこんなことも述べている。
世界戦略を語ることのできる組織が、21世紀のMain Playerである。メガ企業、メガ宗教、メガ団体、メガ学会 ……、そして国家と国際機関がそうだ。
領土に固執する国家が、カネを蓄積する組織に優位性を奪われるとき、どんな世界が到来するのか?迷える子羊の尊厳は宗教団体が最後には守れるものなのか?神の代理人と財産権の神聖とはどちらが上なのか?全く、分からないねえ、見当もつかない。
21世紀の社会は、これらの大組織の力の均衡で決まると見ている。<階級闘争>の理念は、国民国家中心の歴史観に穴をあけたかにみえたが、共産主義の世界性を信じる者は誰もいなくなった。ヘーゲルの云う<世界精神>とはどこにいったのか?ポスト共産主義を担うにたる理念が登場するまでは、Nation Stateが、他の価値尺度と衝突しながら、人間社会の有り様を決めるだろう。
宗教や信仰について投稿する時は、どれも長い文章になっている。書いているうちに、ああも書ける、こうも書ける、ということなのだろう。
社会で繰り広げられている宗教や信仰の自由に関する論議が、一つの方向に収束しないのは、当たり前のことである。
そうは言っても、片を付けないと日本は前に進んでいけないですヨネ
などと言う御仁は、よほどお目出度い人で、もしもこのタイプの方が太平洋戦争末期に暮らしていれば、
そうは言っても、勝てる努力をしなければどうにもなりませんヨネ。今はいま出来ることをしましょうヨ。
そんな正論風のことを語っているに違いない。
数学にも証明不能の命題が存在することが分かっている。まして「社会」に関連する問題の中には「解答不能」の問題が多々あるのだと思っている。
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