直接には関係ないが、昨晩、テレ朝系の▽▽ステーションを観ていると、最後にメインキャスターのF氏が「この世の一寸先は闇です。・・・アジサイの花はきれいに咲くことでありましょう」と、こんな言葉だったかな、正確ではないかもしれないが、大体上のような別れの言葉をつげて終了となった。
よく言えば「政治とか経済は、一寸先が闇で、予測もつかないが、アジサイの花が明日美しく咲くことは人を裏切らないですよ、だから元気を出していきましょう」、そんなことを言いたかったのかもしれない。しかし、上の言葉を聞いていた小生は、気分が悪くなったのだな。「政治や経済では色々とやっているけれど、一寸先は闇。私は、何があってもビックリしません。驚きません。いまハッキリと言えるのは、明日、アジサイが咲く。このくらいですね」、実に捻くれた発言だなあ、と。国会議員が丁々発止やっているが、おれは騙されないよ。視聴者の皆さんも騙されなさんなよ。そんな風なメインキャスター氏の<知恵誇り>の心理が、ヒシヒシと画面から伝わってきたのだが、小生、余りにバイアスがかかっているだろうか?
小生がブログで偏屈なことを書くのは何も問題はないのである。そもそも個人的意見であることは誰がのぞこうが、ハッキリしている。しかし公共の電波で放送している▽▽ステーションのメインキャスターが「この世の一寸先は闇です」と。こんな風に言ってしまって、いいのか?一寸先が闇であることは分かり切った事実だが、人間になしうる良い事があるのじゃないか?その努力を待とうではありませんか、と。なぜそんなことを語れないのか、こいつは?思わず、そう感じてしまったわけ。こういう疑問って、結構、本質的じゃあないだろうか?
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人間を不幸にするのは<知恵>である。
いま愚息が読んでいたゲーテ『若きウェルテルの悩み』をパラパラとめくっている。こんな下りがあった。
ぼくらの立派な先祖たちは、あんな狭い知識しかもたなくとも、あんなに幸福だったのだ。・・・人間は、その上で味わい楽しむためには、わずかの土くれがあれば足り、その下に眠るためには、もっとわずかで事が足りるのだ。この文章表現、小生の祖父が昔語ってくれた禅語「起きて半畳、寝て一畳。人間本来無一物」を思い出させてしまう。洋の東西を問わず、同じようなことを考えるものである。
それに公爵はぼくの心よりも、ぼくの理知や才能のほうを高く評価しているんだが、このぼくの心こそは、ぼくの唯一の誇りなのであって、これこそ一切の根源、すべての力、すべての幸福、それからすべての悲惨の根源なんだ。ぼくの知っていることなんか、誰にだって知ることのできるものなんだ ― ぼくの心、こいつはぼくだけが持っているものなのだ。(以上出所:新潮文庫版、125~126ページ)幸福を得るのに知識は必要ではない。財産も必要ではない。しかし心があるべき姿になっていないと幸福になるのは無理だ。反対に、悲惨の根源になる。そういうことを書いている。
そうかあ、こんなことを書いていたんだなあ。小生自身が読んだときには、全く気が付かなかった。というより、初恋とか純愛とか、無縁だったからなあ、小生は。だからと自慢するわけじゃあないが『若きウェルテルの悩み』はピンと来なかった。
とはいえ、心が<悲惨の根源>であることは、大阪・心斎橋で通り魔殺人を犯した元暴走族の犯人の境遇を聞くにつけ、この点だけは真実をついているのじゃないかと感じるのだ。閉ざされた心の病を、知恵で治すことはできないのじゃないか?心の悲惨に目を向けず、豊かさを知恵働きで守ろうとする現代日本人の姿は、いよいよ瀬戸際じゃなあ、と。そんな風に思ってしまうのだが、言い過ぎだろうか?
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