一口に言えば、日本は20世紀の最後の10年間、カネの使い方を間違った。なくしたカネの巨額さに冷静さを失い、現実の確認をおざなりにして、生理的な反射反応を繰り返したとも言えるか。ここで世界に目を向けて発想転換していれば「失われた20年」も少しはマシであったはずだ。もちろん人によって物も言い様だ。とはいえ、事実の進行という点については、小生は上のように思っている。従来システムへの過信が失敗の原因だ。なぜそんな過信が生まれたかと言えば、「中央の指導と保護」が、つまり護送船団方式が共存共栄をもたらす正しい道であるという思想が(日本では)広く共有されていたからだ。そういう考え方自体が根こそぎ消滅したのが20世紀の終わりであったと小生は思っていたのだが、どうやら霞ヶ関ではまだ根強く残っているらしい。
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本日の道新4面に「地域貢献の私大支援」というヘッドラインが大きく出ている。
文部科学省は17日、環境や観光など幅広い分野を対象に、地域と協力する中小規模の私立大への財政支援を強化することを決めた。地域貢献につながる取り組みに私学助成を拡充し、本年度の増額分は数十億円になる見通し。やれやれ、ホントにこういう感覚で震災復興計画を認可したり却下したりする霞ヶ関の姿勢こそが、いま日本経済の足を引っ張っている、地元のダイナミックな活力を抑圧している。そう言われているのではなかったか?懲りないねえ・・・というか、いったい今の中央官僚は、目と耳がどこに付いているのかと思いました。
学校経営指導をするから、統合、撤退など、生き残りについても助言に従いなさいということなのだろう。それでは駄目じゃないのか?「大学」という学校法人に執着することなく、学校組織の在り方そのものを自由化し、その一方で身に付けた学力を厳格に審査する体制に持っていかないといけないのじゃないか?
確かに学校経営管理も文科省の仕事の一つには違いない。しかし、どこでどうやって学ぼうが、習得した知識と技術が、必ずその人にプラスの報酬を与えるような仕掛けを作る方が、今という時代ではもっと大事な課題ではないか。技能検定、マイスター制、各種検定など色々あろうが、「自分の能力証明」、それも国際的な広がりでシグナリングできる仕掛けを整えれば、それだけでいい仕事に到達するチャンスが増える。いい仕事に就く環境をつくることこそ、教育に国が介入する根源的理由であるはずだ。大学単独でそういう学業証明・能力証明を学生に授与できる大学は、日本国内750校の中で高々100校程度であろう。そこに入れればよいが、入れなかった人たちには、国家が彼らを証明し推薦し、職業生活への道を開いてやるべきだろう。そのためのツールを作るべきだ。
以前、「平均値も理解できない大学生」報道について投稿したが、こんなことが話される状況を放置すること自体が、日本の学校システムの実質的破綻を示唆している、いや「示唆」というよりも、ズバリ、伝えている。
それ故、上に引用した道新の報道は、学校法人生き残り戦略に文科省がコミットしているようにしか見えない。学校という業界では<護送船団思想>がいまだ亡霊のように日本国中をさまよっている。金融パニックに懲りず、想定外の学校法人頓死ドミノ、学校パニックをひき起こしてしまうかもしれない。危険なやり方だ。自然淘汰にまかせる所はまかせ、広く国民にプラスの価値を創出する分野に予算を投入するべきだ。
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