2012年6月17日日曜日

日曜日の話し(6/17)

先日、アランの『プラトンに関する11章』を引用したことがある。忘れないうちに、同書の核心と思われる部分の一つを記しておきたい。それは人生という時間に深く関係していると思うから。
想起、前世、未来の生、プラトンはいったいどのようにそれらを理解しているのだろうか。 
わたしは幾何学を発見するのではない。それを(忘れていたのを)再び見いだし、再び認識するのだ。これは何を意味しているだろうか。次のことだ。私がそれを仮に経験していなかったとしても、私がそれを<理解>する以上は、わたしがそれを経験していたことがわかる、ということだ。・・・わたしはずっと知っていたのだ。それは、すでに前から、この私の面前で、<真理>であった。かくて時間は除去される。(思考においては)未来、現在、過去 ー 皆同時に存在する。
私がそれを再び見いだしたなら、それは私が見失っていたからだ。 
もしものが老朽するなら、そのものはずっと以前から死んでいたのだ。まさしくここにおいてこそ、君は、永遠に同一な自然を少しなりと把握してみるがいい。 【出所】アラン「プラトンに関する11章」第6章(森進一訳、ちくま学芸文庫)
プラトンと言えば「洞窟の比喩」が有名だ。それは、すべて人は暗い洞窟に閉じ込められているのだと例える。入り口には火が燃えていて、洞窟の外の出来事は壁に移る影をみて想像するのだ。外の世界を目にしたことのない人間は、影を実際に存在している物だと信じる。その影についてあれこれと議論をする。外の本当の世界が「イデア」と呼ばれ、影が「現象」である。先日話したサイコロと立方体の話しはこの一例であったわけ。

親しい人の中でも「自分自身」は最も親しい人間だ。その自分をどう認識しているか。いま現在時点における自分が「自分」であるとは考えない。過去から現在まで、更に未来にも生き続けていくであろう自分をすべてひっくるめて「自分」と考えているだろう。自分とは自分の人生全体にわたって存在している。他人が小生を見るときは、その瞬間時点における小生である。しかし、それは時間軸に投影された小生という真実在の影にすぎない。真に存在する「自分自身」は時間を超えたところに存在する。その存在を少なくとも自分自身は実感するだろう。 それが上の引用文で語られている「未来、現在、過去 ー みな同時に存在する」という考え方だ。自分以外の親しい友人をどう認識しているか。同じである。やはり時間を超えて「その人物」という存在を理解しているはずだ。いま見る友人は、「友人その人」が現在という時点に投げている影である。

真理は「発見する」のではなく「思い出す」という以上は、自分が覚えている自分自身よりも更に過去の時点において、自分自身つまり自分の魂が存在していたことになる。プラトンは前世をこのように理解する。だとすれば、前世における自分を基準にすれば、今の自分は未来における自分になるので、今の自分にも未来の生があることになる。かくして自分という存在は時間を超えて永遠に存在しているはずだという議論になる。「数学的帰納法」だね、これは。肉体は明らかに滅びるのに、自分は永遠に存在することが可能であるとすれば、魂の実在を認めるしかない。これがプラトンの霊魂不滅説である。

面白いねえ、こういう見方。若いときに初めてプラトンを読んだ時、小生、こいつは狂っているのかと思ったなあ。しかし、年数をおいて何度か目を通しているうちに、洗脳される感覚を感じ、一度、染まってしまうと思想になって、心の中の強固な軸になる。プラトンというのはどうもそんなところがあるようだ。欧州を乗っ取ったゲルマン人が洗脳されるはずだ。


Miro, Dona, 1974

上の作品はスペインの画家ミロの作品で"Woman"と呼ばれる一連の作品の中の一つである。他にも多数の"Woman"をミロは描いている。どれも人間の目で見る女性とは隔絶した形である。

つまりミロが描いたのは人間の目に映る女性の影ではなく、女性の真実在なのだろう。真実在の姿を人間の目に見えるイメージで表現するとすれば、実際の映像よりは上の作品の方がより近いはずだ。こう言えば<ミロのプラトン的解釈>になるかもしれないねえ。ただ、ミロは他にも多くの"Woman"を描いている。ということは、女性の真実在など、ミロもよく、というか全然、分からなかった。そういうことでもありましょう。

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