そのゲーテは、当初は法律を学び法曹専門家として人生を歩み始めるが、後にドイツ・ワイマール大公国で政治顧問、文化行政の責任者を務めるようになった。官僚としての煩雑な実務への倦怠、フォン・シュタイン夫人との恋愛のもつれ ― 日本の作家・森鴎外とも類似した環境であるが ― それに年来の古代文化への憧憬が重なって、誰にも告げず逃げるかのようにイタリアへ旅行し、同地に1年有半も滞在したのは、彼が37歳の時である。ゲーテがドイツに帰国した1788年の翌年の7月14日、フランス・パリのバスチーユ監獄が襲撃され、欧州全域はフランス革命の時代へと移って行った。
イタリアに滞在している間、ゲーテは画家ティッシュバインに同伴してもらい様々な地を訪れたようだ。
Tischbein, Goethe in the Campagna, 1787
堅苦しい芸術の話しばかりしてきたが、ここに面白い出来事がある。というのは、ティッシュバインの所へ近寄ってきた幾人かの知り合いのドイツの美術家たちが、私の顔をじろじろ見てはそこいらを行ったり来たりしている。それは私もかねて気がついていたのであるが、ちょっとのあいだ私のそばを離れていたティッシュバインが帰ってくると、私に対して言うのだった、「なかなか面白いことがありますよ。詩人ゲーテがここに来たという噂がすでにひろまっていて、美術家たちは唯一の見知らぬ旅人のあなたがどうもそれらしいと白羽の矢を立てたのです」。・・・そこで私は前より大胆になって、美術家たちの中にまじり、その手法をまだ知らなかったいろいろの絵の作者のことなどをたずねた。しまいに、竜を退治して乙女を救った聖ゲオルクの画に私はいたく心を奪われた。誰もその作者を知らなかった。その時、小柄で謙遜な、今まで沈黙を守っていた一人の男が進み出て、それはヴェネチア派のポルデノーネという人の作で、それこそ彼の全技量を窺いうる傑作の一つであると教えてくれた。(岩波文庫版「イタリア紀行」(上)、173‐174頁)ただし上の文中に登場する、ポルデノーネという画家は確かに16世紀のヴェネチアで活躍し、大画家ティッツィアーノのライバルでもあったというが、その作品に聖ゲオルクはなく、たとえばWeb Gallery of Artにも含まれていない。岩波文庫の上巻巻末にある注によれば、作品「聖ゲオルギウス」は現在バチカンの古美術館に所蔵されているが、その作者はポルデノーネではなく、パリス・ポルドーネであると。そう記述されている。ゲーテの聞き間違いである可能性が高い。
いずれにしても、そうかあ・・・ゲーテがイタリアへ逃避したのも37歳の時であったか、と。小生が役人生活を辞めて大学で残りの人生を送ろうと思い定めたのも37歳の時だったなあ。良かったか、悪かったか、わからないが ― 多分、単純な意味で偉くなったか、なれなかったかだけでいえば、悪かったのだろうが ― 同じ時点にもう一度戻れば、やはり逃避を願ったのに違いない。小生の場合は、北方へであって、ゲーテのように
君や知る、レモン花咲く国、
暗き葉かげに黄金のオレンジの輝き、
なごやかな風、青空より吹き、
銀梅花は静かに、月桂樹は高くそびゆ。
君や知る、かしこ。
(出所)ゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』こんな風に、憧れの南の国へ、ではなかったが。ゲーテは、しかし、ドイツに帰国した翌年からフランスで勃発したフランス革命とその後の迷走と混乱、その果てに登場したナポレオンによる第一帝政へと、急激に変化する時代の中で、周囲のドイツ人には理解しがたい非愛国的、かつ微温的・保守的態度を貫き、そのためにドイツの人たちとの間に埋めがたい疎隔が形成されてしまったと伝えられている。
そのフランス革命の思想上の指導者はジャン・ジャック・ルソーである。ルソーが生まれたのは1712年であるから、今年は<ルソー生誕300年>という年にあたる。彼が国家の成立の淵源について考察した著書『社会契約論』によって、ルソーは、今ではどうやら人民主権を唱えた先駆者としての地位ばかりではなく、共産主義思想の先覚者としても見なされていると聞く。いま小生が読んでいるのは、同じ年に発表されたもう一つの主著『エミール』である。刊行は1762年だからルソーが50歳の時の著作である。
Maurice Quentin de La Tour、Jean-Jacques Rousseau、1753
『エミール』は、仮想の生徒エミールを生まれてから成年まで、家庭教師として付き添いながら、自分はどのように躾け、教育していくことを理想とするのか、その考えをまとめた<教育小説>である。哲学者カントが、決して崩すことのなかった時計のような生活をたた一度だけ崩したのは、このエミールを読みふけった日のことであったことは、誰もが知るエピソードだ。
子どものころ肉体的な苦しみしか知らなかった人はしあわせだ。肉体の苦しみはほかの苦しみにくらべればはるかに残酷でも、つらくもないし、そのために生きることを断念するようなことはめったにない。痛風を苦にして自殺する人はいない。絶望に追い込むのは心の苦しみ以外にはないといっていい。わたしたちは子どもの状態をあわれむが、あわれむべきはむしろ私たちの状態だ。わたしたちのもっとも大きな苦しみの原因は私たち自身のうちにある。(岩波文庫版「エミール」(上)、44ページ)
ルソーは、人間はすべて善なる存在として生まれるが、社会が人間を悪いものとし、駄目な存在にすると考えるところから出発している。それにしても、少子化と人口減少へのまなざし、自殺への問題意識といい、時代を超えた現代性をもっているのがルソーの思想であり、そんな人物が300年前のフランスにいたとは不思議な気がする。
ゲーテは、フランス革命後の恐怖政治には嫌悪感をもっていたし、ドイツ帰国後のゲーテから疾風怒濤時代の魂はすでに失われていたようであるから、革命思想の象徴であるルソーには、ただ拒絶感情をのみ持っていたのかもしれない。ただこの点、エッカーマンの『ゲーテとの対話』辺りで話題になっていたのかどうか、記憶が定かではない。
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