「現場って面白いですよねえ。そこに充実感の何もかもがありますね。」
「彼は、もろに現場にいたんだよ、青森県の」
「いました。何にもない所ですからね。夜は集まって酌み交わすしかないですよ。それから北海道に異動になったんです。現場は、まだ日本にもありますよ、新幹線だってこれからじゃないですか。後に引き継いでいかないと。」
「新幹線って言えばさ、中国の新幹線事故、あれは酷かったね。」
「思うんですけどね、日本が明治時代とか、戦後間もなくとか、まだ技術水準が低かった時代に、同じような事故を起こしたとして、日本人は車両を埋めて、事故なんてなかった体裁にするなんて、発想もしないんじゃないですかね?」
「当たり前だよ。汚ねえじゃねえか!」
「でもね、中国のような行動パターンに、正直なとこ、感心する時もあるんですよ」
「ほんとか?」
「う〜ん、なんというかな、どんな手段を使ってもね、生き抜くっていうか、卑怯だろうが、汚かろうが、後に生き残った方が勝ちで、どうとでもなるわけですよね、歴史って、生き残った方が正しいというストーリー作りじゃないですか、結局。日本人は、汚く生きるくらいなら、きれいに散る方がいい、そんなところありません?」
「確かにありますねえ、生き恥をさらすなら、ぱっと散ればいいってとこ」
「そうでしょ。でも消えちゃったら、後に残ったものの好きになるわけでしょ。汚いほうが勝つんなら、汚く生きることも大事じゃないですか?」
「新幹線技術も、中国発祥ってことに、最後には、なるってか?」
× × ×
「忘れる」よりも、もっと徹底した「抹消」。思い出す事も許されない、徹底した「非存在」。そんな消えた事実もまた、実は、水面下の水の流れに似て、社会の発展の一歩をなしている。歴史の執筆は、なるほど勝ち残った側の意図であり、よく言えば遺産であり、それら遺産の上に、現在世代は暮らしているわけであって、時に私達は「許されない歩み」を目にし、それに憤ったり、嘆いたりする事もあるが、それらは私達の無知のためである。的外れであるのは歴史の方であり、不合理であるのは私達の認識である。現実は、元々あった本当の発展の歩みが、そのまま元のまま続いているだけである。何も驚きには値しないし、義憤には値しない。ずっとそう思っている。勝った側が作った歴史もまた時間の流れの中で風化し、修正されていくものである。美しく散っても、それはなかった事になるわけではない。一晩寝ると、そう思うようになった。
横山大観、夜桜、1929年
(出所)【画像で見る】日本画家・横山大観の作品
母の法要が終わって、お斎になり、いわき市に住む弟と韓流ドラマの話しになった。
弟: みないんだ。僕はね、反韓っていうか、嫌韓っていうか、昔から国粋主義者だからね。
小生: そうか。だけど、面白いぜ、みると。昔は日本でも作れたんだけど、シンプルで空っぽじゃなくて、みちゃうぞ。
弟: わかるよ、うちのカミさんもはまってるし。
小生: オオっと思わせるやりとりもあったなあ。改革を進める王に反対する貴族の大臣が、改革を求める若者を逮捕したんだけど、それを王が責めると、貴族が「この国には物事の進め方として決まった掟がございます。しかし、彼らは掟をないがしろにし、自分たちの意に沿うようにこの社会を変えようとしております。これが秩序を乱しているのでなければ、何をもって秩序を乱すと言えるのでしょう?」、分かりやすいだろ?
弟: アハハ、やるなあ。面白いねえ。日本のドラマはだめ!そんなやりとりはないよ。普通の会話、それだけよ。つまんないって言えば、ほんと、つまんないよ。国粋主義者であったか・・・そうだったかなあ?兄弟とはいっても、昔の事はそうそう思い出せないものである。
これもまた<消えてしまった事実>なのかもしれない。
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