ずっと午後は暑くて仕事にならないので仕事場に行くようにしていたが、今日は涼しいので、のんびりと、TVのワイドショーをかみさんと観たりしている。AMH検査が今日のトピックらしい。何歳まで出産できるかに関心があるということは、子を育てることに意識がある証拠だ。子育てに意識はあっても、今はしない。それが男女を問わず、共通の意識なんだろうと思う。
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経済学に”Child Cost”の計測というテーマがあって、ずっと昔、自分でも計算をしたことがある。子供が一人増えることで家庭内一人当たりの効用水準が低下する。それがChild Costであると考えるのだった。効用を一定に維持するのに必要な総消費額が<生計費>である。
しかし、この話しを専門外の人にすると、例外なく”Child Cost”という用語自体が理解不能であると言われたような漠然とした記憶がある。そもそも家庭内に子供が一人誕生したときに、その家庭の一人当たり効用水準が低下するという発想自体が理解不能である、と。であれば、子供を作るはずがないというのだな。「確かにネ、子が誕生して、効用が下がったと考える父も母もいないですよねえ・・・」、「兄や姉もいねえよ!弟ができて嬉しかったもん」。これが事実だ。家庭の経済分析は、どこかずれているんだよなあ、と。で、このテーマからは次第に遠ざかってきた。
子供を授かって、育てるのは、自らの経験を振り返ってみても結構体力がいる。「若い勢いで生んで、育てるしかないよねえ・・・」、カミさんとはそんな話しをしょっちゅうする。若いときに子供を作るのは意思決定というよりも偶然だろうと思う。子供が生まれたら育てるしかない。というより、子を可愛がる相手を見ていると非常に美しく見える。もっと好きになる。だから自分も幸福になる。大体、若いうちには社会的責任もない。自由だ。気兼ねがないのだな。
だとすれば、子育ては理知的な<人生設計>で選ばれるものではなく、パートナーの獲得も含めて、自立してまだ若く、将来への野心が心にたぎっているときの<エネルギーの爆発>によるものではないか。そもそも自分の家庭作りを願う本能など、本来は制御可能ではないと思う。
近くの知人で子息が出来ちゃった婚をした家庭があり、カミさんも定期的にそこの奥方と会って雑談に時間をつぶしている。帰ってきては小生に話しの中身を伝える。成り行きがそうなったので、経済的には親がかりで生活しているそうだ。「うちの子がそうなったら、そんな手はさしのべねえなあ」と小生は悪態をつくが、しかし形はどうあれ、楽しいだろうなあと若干羨ましいのも事実だ。「自立の次は、お世継ぎを育てるのが、お前の仕事だ」、愚息にはそう発破をかけている。
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雇用形態が合ってないんだよね、時間がないんだよね、収入が足らないんだよね、保育園が不足しているんだよね、疲れているんだよね・・・・・と、少子化の原因(と思われる点)は無数に挙げられている。しかし、どうも違うんじゃないか?そもそも江戸時代の農家は一家総出でみな労働をした。明治以降もそうだ。労働力をとられるので兵役の義務化にも反対運動が起こった。それでも少子化現象とは無縁であった。過去と現在が違うとすれば、長寿化が深刻な社会問題として同時並行で進んでいることのみである。自立をして、自分の幸福を自由に求められる年齢期に、急がずともよい事柄に精力を使わせているためではないか?受験勉強であったり、就活であったり、要するに余計なプレッシャを10代〜20代年齢層に義務づけているためではないのか?25歳になる頃には、いまの日本人は兵舎に監禁でもされているかのようにヘトヘトになっているのじゃないか?
中央統制による教育システムを完全に自由化し、国内企業の談合による新卒者採用システムを完全に自由化すれば、案外、簡単に少子化問題は自然解消するのじゃないか?少子化問題は、実は経済問題ではないのじゃないか?自分のペースで暮らしていけるようにするだけで十分じゃないか?単に、制度を維持する事のみに汲々としている<行政の失敗>、<経営の失敗>ではないのか?そんな感想をもつことも多いのだ、な。
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