2012年9月9日日曜日

日曜日の話し(9/9)

朝方雷鳴がして目が覚めた。窓を開けて様子をみると結構な雨勢だ。秋の驟雨かあ、いきだねえ。早く隠居をして雪の少ない町にセカンドハウスを構えて花や野菜を育てたいものじゃなあ、と。そんなことを思いめぐらしているうちに
名声は労苦の泉、
隠世は幸福の泉
という格言を思い出した。エッカーマン「ゲーテとの対話(下)」(岩波文庫)の1823年2月9日にある。
Der Ruhm eine Quelle von Mühe und Leiden,
Die Dunkelheit eine Quelle des Glücks
言わんとしていることは、今ではよく納得できる。

しかし、ずっと昔、某中央官庁で役人生活をおくっていた頃、「地方には国立大学があるわけだし、そこの教授、助教授は知的リーダーにならないといけないんだよね、本当は。しかし、実情はみんなサラリーマン化しちゃってさ・・・役に立たないわけよ」と、こんなお喋りをしてました。まだ20代であった。全くねえ・・・これを傲慢と言わずして、誰が傲慢であろうか。かつ無知である。土台、20代の青二才に世間の機微は分からないし、分かっていないという事についても無知である。まあ、小生だけではないと思いますが。しかも首都圏に住んでいると、地域特有の社会心理的バイアスに影響されるのであろうか、国の事を考える、社会全体を語ろうとする。それが当たり前の習慣になってしまうのだな。田舎で暮らしていると『で、お前はどうするんだ?』と。人間的であり、かつ自然な感覚で生きるようになるが、その感覚からずれてくる。この辺、自然の中で生きるのと、都市に生きる感覚の違いかもしれない。そう思ったりする。

× × ×

ゲーテは、年上のシュタイン夫人との恋愛に疲れ果て、イタリアに逃亡旅行をした。その旅行記が『イタリア紀行』である。帰国してから身分の低い一人の若い女工を愛するようになった。クリスティアーネである。永年の同棲生活を経て、彼女を正妻に迎えたのは彼女が41歳になってからである。後期の授業が始まるまでまだ日数があるので、このところトーマス・マン『ワイマールのロッテ』を読んでいる。『若きウェルテルの悩み』で主人公が愛したロッテのモデルであった実在の人物シャルロッテ・ブフが、ウェルテル事件の後44年を経て、ゲーテが暮らすワイマールを訪れる。そこでゲーテをとりまく人物と「偉大な天才」の本質について語り合い、長い間の疑問を氷解させるに至る作品である。

ゲーテは古典主義者だったが、時代はロマン主義への入り口に立っていた。フランス絵画であればドラクロワであり、イギリスであれば詩人バイロンの名前が真っ先に挙げられるかもしれない。音楽ならベートーベンからシューベルト、シューマンへの流れに該当する。ベートーベンというとシュティーラーが描いた下の肖像画が決定版だ。小学校の音楽室にもはってあった。


Joseph Karl Stieler、Portrait of Ludwig van Beethoven、1820
(出所)私の好きな絵画

よく知られた話しだが、ベートーベンはゲーテとは気質が合わなかったらしい。一方、ゲーテは、ナポレオンを偉大な人物と呼び、極めて高く評価していた。とはいえ、フランス軍がドイツに侵攻し、ワイマールのゲーテ宅にも仏軍の兵士が乱入し、ゲーテその人も生命の危機に瀕したという。その時、体を張ってゲーテを守ったのがクリスティアーネというのだな。彼女は、下層階級出身で無教養、それもあってか極めて下品な趣味と感性を持っており、ワイマールの社交界からは拒絶されていたという。ゲーテ夫妻をありのままで受け入れたサロンは、当時ワイマールに居住していたヨハンナ・ショーペンハウアー夫人で、その息子が著名な哲学者アルトゥールである。いまは作家マンが、哲学者の妹アデイレの口を借りて、ゲーテその人を語っているところを読んでいる。


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