一昨日5日の下りは中々いい。将軍・慶喜が上野寛永寺に謹慎して、あとは城を明け渡すばかりの或る日、六兵衛の上役である書院番組頭から城を立ち退くよう命令してもらおうと隠れ先までわざわざ訪れたとき、その上役が口にした言である。
武士道と申すは常在戦場の心がけであるからして、天下太平の世となってからも、幕府はこの上意下達の法を頑に守ってきた。日本人がもつ魂にはいくつかの側面があると思うが、その中で<武士道>は新渡戸稲造が『武士道』を英文で刊行してからこのかた、代表的日本人を支える心性として海外でも知られるようになった − というより幕末の東漸寺斬り込み以来、Samurai Attackは侮れないものであると、恐怖の感情が植え付けられたのかもしれない。と同時に、日本社会が根底に持つ(というか、持っていた)部外者排除、外国人排除、純化志向の心理的特徴も自ずから伝わっていったのだと小生は想像している。
・・・わしは「おのおの勝手にいたせ」と言うただけで、その通り勝手をした者にしてみれば聞く耳はもつまいよ。
ややっ、無責任とは心外な。それを言うならわしなどではなく、もっと上に言え。よいか上意下達のてっぺんはどなたじゃ。ほかならぬ上様でござろう。ところがその御方は寛永寺にてご謹慎中、跡目に立たれたは御齢わずか六歳の田安亀之助様じゃ。言うだに畏れ多いが、まずこうしたてっぺんの有様が無責任であろう。どちら様もご上意など、お口に出せるはずはないのだ。
ワーグマン、東漸寺事件
(出所)http://www.artgene.net/event3.php?EID=9147
(出所)http://www.artgene.net/event3.php?EID=9147
攘夷志士が品川・東漸寺にあった英国公使館を襲撃したのは桜田門外の変があった翌年1861年(文久元年)5月28日のことである。この夜、ベッド下にもぐりこんで隠れおおせた画人チャールズ・ワーグマンは、その後も日本に滞在し、当時の風俗を伝える多くのスケッチを遺している。
上で言う<武士道>は、サムライの倫理であり、侍とは侍る(=はべる)、つまり主人からの下知をまつ、命令を待つために側にはべる、だから侍という。つまり武士道とは臣下の道徳であり、統治のモラルを提供してはいない。服従のあり方の理想であっても、支配の原理を指し示す指針ではない。やはり武士道の花は忠義であり、命をかけて自己犠牲を全うする姿を眼前に見るとき、どれほどその行為が不合理であっても日本人の倫理的感情と涙腺は、甚だしくその美と崇高さに刺激されるのだ。確かに言えることは、日本人は真の意味で命令を受ける事に慣れているのであって、反対に命令したり、支配する事には慣れていない。慣れていないだけではなく、慣れようともしなかった、あまり考えてきたとも言えない。そんな一面があるだろう。
新聞小説では究極的な主である「上様」が姿をくらましており、誰も命令を下せない。そういう原理的に無責任な現実が描写されており、無責任を旨とする状況の中で一人の武士がモラルを通す姿を、皮肉にも滑稽に描写している。ここが面白いのだな。時代としては、1868年4月11日に慶喜が寛永寺から水戸に出発、同月21日には官軍総督・有栖川宮熾仁親王が江戸入城と記されているから、上の場面は同年春先の事であったにちがいない。
小生、戦前期・明治体制の内閣の輔弼義務と天皇無答責は、まさにこの無責任原理を状況的に引き継いだものと考えているのだ、な。明治から大正にかけては英雄的叙事詩の世界であったかもしれないが、大正から昭和前期にかけて同じ体制であったにもかかわらず延々と繰り広げられた混乱には、(不謹慎のようだが)ドタバタ喜劇の要素があるのは、そもそも臣下の倫理を求める一方で、支配の無責任を原理としていた故ではないか。極論するならもう一遍「大政奉還」の意味合いを定義する地点からやり直した方が良かったのではないか。そう思いもするわけだ。そう見るなら、的矢六兵衛の滑稽な武士道も、A級戦犯・東條英機の天皇陛下への忠節も、その心根は同じであると見れない事もない。
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