2012年10月24日水曜日

不平等をいうなら所得よりも重いものがある

今晩義兄の告別式等を済ませ名古屋経由の便で北海道に戻る。カミさんは、しばらくの間向こうに滞在して、相談相手になったり、雑事の手伝いをする予定だ。東日本大震災の日まで20年以上ずっとつけていた日記は、震災の後、Googleドキュメントにして大変重大な事柄だけに限定して簡単に記すようにした。今週日曜の記述をここに貼付けておく。

昨日帰松したY子から11時頃に電話あり。「兄がダメだって・・・T子さんから電話があって、呼吸が止まったんだって・・・」、早すぎる急変に驚く。言葉が出ず。レオパレスの契約はうまく済んで、今日から使えることになったが、すぐに兄の家に帰るというY子に、これからの予定が決まったら教えてくれと言いおく。仏壇の灯明をともし、父と母、なかんずく20年の昔、松山で療養していた時分に何度か母とも会ったはずの義兄が亡くなったことを告げて、まずは合掌十念する。
最初に発病して手術をしたのが3年後に再発して、それから7年、計10年の闘病生活である。特に再発した時は、まだ五十前で医師として油の乗り切った時でもあったし、呼吸器での再発となると平均的余命は1年か2年というのが相場であったので、これまでやってきたことが全て無駄であったように思ったらしく、内室のT子さんの目にも落胆と絶望の様子がうかがわれた由。何をやっても無駄であるという気持ちを中々乗り越えられなかったようだ。再発後の7年間は一年一年が予想外の一年だったのである。

塚も動け 我泣声は 秋の風(芭蕉)
よく所得や資産の不平等が問題視されているが、小生は何よりも命がもっと公平であればと思うことが多い。しかし、現実に神は不平等を愛するようだ。ただ、不平等というのは人間の言い分であり、実は不平等ではなく多様性と認識するべきなのだ。その多様性は、数多くの貧困をその中に包み込み、それによって全体としては何かの進歩と活力をなくさずにいさせることができるのだろう。そう考えるしかないのではないか。あらゆる自然はそうではないのか。現実に人間にとって悲哀の感情が刺激される状況が現にあるのは、それがありうるからであり、なければならないからであり、それを自然が必要としているからだろう。それは決して無駄ではなく、人間社会といってもむしろ自然の働き、宇宙の運行の一つの断面なのだと受け止めている。

僧朝顔 幾死に返る 法の松(芭蕉)
生命の在り方そのものだとすれば、ある人とある人の命の差を人間の正邪善悪の判断対象として考えてもそれは意味がなく、また違いの意味付けを考えても答えはない。同じように、それが人為的規制ではなく、社会のプロセスから自然に形成されるのであれば、ある人の所得を別の人の所得と比べても、その違いに意味はないだろう。ただありのままに現実を見ることを通して、自然を受け止め、自然の中で明日を生きるしか人間にできることはない。

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