小生: いまはお前の実家とおれの家はすごく近しい縁で、T家とN家はすごく濃い関係なんだけど、次の子供の代になると従兄弟の関係に薄まるし、その子の、またその子の代になっていくにつれて、いまの縁はいずれ消えて、N家の人とT家の人は最後には元の他人に戻ってしまうのだろうねえ。
かみさん: だけど子供達はつきあうと思うよ。小さい時から行ったり来たりしているし。ああ、だけど名字が違うから、そのうち、つきあわなくなるよねえ。
小生: 昔はさ、近くに住んで、嫁さんを迎えたり、養子にとったりして、縁が薄くならないようにしたんだろうけど、今じゃあ、そんなことはしないしね。北海道と松山じゃあ、仕方ないよ。お祖母さんの出里までは知っているけど、ヒイ祖母さんの実家は知らないだろ?
かみさん: 縁はもうなくなったってことだよねえ。
× × ×
日本の町は非常に清潔である。ゴミがなく、清掃が行き届いていることは海外から帰った日本人にもよく感じ取れることだし、まして外国人が日本の町を歩いて最初に印象づけられることはゴミが少ないことだ。そのことは頻繁に耳にすることだ。しかし、モノについては清潔好きである日本人が、ウソ、特に<偽善>なるものについては意外な程に大まかである。小生は、そんな風に感じることがある。
というのは、巷の井戸端会議のホット・イシューである次の報道のことだ。
日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は19日、自身の出自に関する週刊朝日の連載記事に関し、出版元の朝日新聞出版が謝罪コメントを出したことを受け、朝日新聞への取材拒否を続けるかどうかは「次号の内容を見てから判断する」と述べた。
同時に「次号のおわびの内容は朝日新聞グループの見解として受け止める」との見解も示した。市役所で記者団の質問に答えた。
連載記事は週刊朝日の10月26日号に掲載。橋下氏は「内容が一線を越えている」として、朝日新聞出版の親会社である朝日新聞の取材を拒否する姿勢を示した。週刊朝日はノンフィクション作家佐野眞一氏と取材班による緊急連載で「ハシシタ 救世主か衆愚の王か 橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶり出す」と題して記事を掲載。18日に「不適切な記述が複数あった」とする編集長名の謝罪コメントを出した。
(出所)MSN産経ニュース、2012.10.19 15:19 配信佐野真一氏というと、例の「東電OL殺人事件」を著した人物であり、小生も読んだが前後の行動を見ていると、それほど低劣な記事を書く人とも思われない。思われないが、個人の努力と人格を評価し、その範囲に批評を限定することなく、親、兄弟の素行や出自にまで話しを広げ、それを種に誹謗中傷するとなると、一体何のために現代世界は努力しているのかと、これまでの文明国の努力を全く無にする行為である。そう弾劾されても仕方のないことであり、報道の自由とか、言論の自由とかを唱えても、所詮は勝手自儘の域を出ない。この判断が基本的には正しい。誰かも話していたが、橋下市長は今回の件を裁判に訴え、裁判所は個人の尊厳と報道の自由とのバランスについて有効な判例を一つ加えておくべきだろう。
ただこんなことを言うと、話しがグチャグチャになるのであるが、出自やDNAを云々する同じような文章が、たとえば産經新聞の、たとえばコラム記事「正論」になって掲載されていたとすれば、小生、それほど義憤にはかられなかったと思うのだな。もちろん誰もが知る右翼紙である産經新聞が政治家・橋下徹をいかなる理由であれ貶める記事を書くとは思えない。しかし、仮に政治家・橋下が例えば菅元首相と連携するようなラディカル再エネ派であれば、やはり同種の文章を掲載するのじゃないか、そんな想像をたくましくしている。そもそも産経は、個人の能力を反映する自由資本主義を強く支持し、基本的人権の擁護や格差拡大の是正には、決して力を入れて支持してはこなかった。そんなマスメディアが勇み足で、気に食わぬ政治家の出自を暴露する。「おいおい、そこまで言うかねえ」、そんなこともあると思うのだな。もちろんよろしくはない。
しかし朝日新聞社は違う。人権擁護には非常に熱心であった。差別ということについて非常に敏感な感性をもってきた社風である。その朝日新聞の系列週刊誌が、いくら気に食わない右翼政治家だからといって、日頃唱えている個人の尊厳を否定するような言動をしちゃあ、日頃の立派な言動は全て<偽善>であったのか。そうなるでしょう。今回の騒動は、特に朝日が関係しているので、憤慨の念を覚えたのだ。
朝日新聞社は平和主義である。しかし戦後日本は平和であったからこそ、経済成長ができたし、豊かになったのである。だからこそ、平和を主張したのだとしたら、狙いは利益であり、それをそうと言わず、平和こそを求めるべきだと議論すれば、それは<偽善>である。朝日新聞社は格差拡大には大変批判的である。確かに戦後日本では分配の平等化が進んだ。その平等化と、ぶあつい中流階層の形成から最も得をしたグループの一つに、部数拡大と企業の成長を実現できたマスコミ各社が挙げられる。求めるものは企業利益でありながら、それをそうと言わず、平等の理念を吹聴するのは、文字どおりの<偽善>である。
自社にとって望ましくない政治家を誹謗することが目的であれば、日頃の発言とは異なった行動をとる。だとすれば、社の理念は所謂<理念>ではなく、たまたまその方向が自社利益にかなっていただけであり、そういう意味で<経営戦略>であったのであり、理念などではなかったことになる。理念でないことを理念として語るのは偽善である。
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まあ、そんなことを考えつ、思いつしながら、高速を運転して帰ったのだ ー 危ないよなあ。家に帰りつくと、小生一人である。「ああ、もう君はいないのか」、いやいや、これは不吉である。
日本人は、友人・知人の心の中にいる己(おのれ)を確認して、はじめて自己という存在を確認する傾向があるのじゃあないか。先日、ビジネスプランの狙いを聞いてみると、「お客さんに喜んでもらう、これが究極的目標です」と、そんな回答をえた。確かに顧客志向というのはビジネスの根本である。しかし、「これは悪い」という正邪善悪の判断は、倫理的判断であり、周囲の全ての人が自分と正反対の判断をしている時に、なお自己自身はどう判断するのか?これが正真正銘のモラル的判断であるはずだ。日本人にとって、友人・知人こそが自分のいる「社会」である。そう言えないか。その社会の中で、自分はどのように思われ、どのように評価されているか、他人集団の中に描かれている<自分の肖像画>をみて、そこで初めて自分が自分であることを確認して安堵する。そうでなければ不安になる。こういう心には、そもそも自由はなく、したがってモラルは存在しえず、故に善悪を論じることに意味はない。強いて言えば、おかみの指導や外圧によって集団的間違いを抑えるしか方法がない。
もし個人だけではなく、日本企業の企業内心理学としても同様のことが言える、つまり顧客は自社に何を求めているのだろうか?顧客を喜ばせてあげたい。この点を最優先するとすれば、敵対する政治家をどのように誹謗中傷しようと、<なぜ>そのやり方が悪いのか?この問いかけに真の意味で答えられないのじゃないか。偽善ですよ!こんな非難に対して「私達が悪かったってことですか?ミスですよ、単なるミス」。いやあ、言いそうだねえ。ここまで考えて、納得しつつ、自宅のドアを開けたのである。
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