2013年6月23日日曜日

日曜日の話し(6/23)

今日は毎月の月参り。寺から読経に来た。この何ヶ月、来るのはいつもご隠居である。いつもの経を朗々と読んでから、両親と祖父母の戒名を唱え「追善増上菩提○○△□」と続けて、最後は▲■家先祖代々の何とかかんとかで終わる。終わって、お布施を渡して「一休みしていきますか?」と尋ねるのも恒例である。すると2回に1回の割合で「そうですね」と答え、茶を喫してから帰る。時々、子息の現住職自らが来ることもある。住職は、小生の愚息が寺の幼稚園に通っていた時分、まだ副住職で幼稚園の園長であったが、北海道に来てから日の浅い小生は、墓参も不便になり、両親の供養をほったからしにするのを気に病んで、何とか親の菩提を弔うというか、当地でできることを探したあげく、愚息の縁で読経を頼んでみたところ、今日までの長い付き合いになったというわけだ。

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『文藝春秋』6月号の特集は「日本型リーダーはなぜ敗れるのかー原発事故と太平洋戦争」であり、福島第一原発の吉田所長と第二原発の増田所長の判断と結果の違いが話題になっている。これはこれで面白かったが、大体予想できることしか書かれていないのも事実だ。昨日、たまたま手に取ってパラパラめくっていると、「現代の名文入門」の中にドナルド・キーンと徳岡孝夫の対談が載っていた。

キーン氏がこんな発言をしていた。
荷風先生(=永井荷風)の家は、表札もなく、自動車がとても入れないような路地の奥にありました。日本人はよく謙遜して「うちは汚いところですが」と言いますが、そこは本当に汚いところでした(笑)。玄関で待っていると、前歯が抜け、ズボンのボタンが全部外れたおじいさんが現れました。とても感心できない身なりでしたが、そのおじいさんがまぎれもない荷風だったのです。 
しかし、彼が口を開いとき、もっとびっくりしました。あんなに美しい日本語を聞いたことは、後にも先にもありません。日本語特有の哀しさや翳りが感じられて、間違いなくこの人が、あの『すみだ川』などの作者なのだと確信させられました。
なるほどネエ・・・と、「日本語特有の哀しさや翳り」というのは、そうかもしれんなと。ま、英文のミステリーやスパイ小説を読んでいるとき、(当たり前だが)哀しさや翳りを感じることはない。翳りが漂っていてもいいはずのワーズワースの詩も、日本語訳だと何がなし無常観を感じうるのだが、英語原文だと妙に明晰感がでてきて、哀調がなくなるように思うのだな。時雨の日も、澄み切った晩秋の青空も、どちらも詩情をもつのだが、やはりこの二つの秋はどこか違っている。言葉の世界もどこか肌合いは違うのだろう。谷崎潤一郎は「陰影礼賛論」を書いたくらいだ。翳りの中に儚さと哀しみをみるのは、日本語というか、日本的感性の本質かもしれんなあ、それにしても米人がここまでJapanese Sentimentを身につけるとはすごいねえ、そう感じた次第だ。

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行きたくて行けなかった展覧会がある。それは京狩野派を率いた狩野山楽・山雪の特別展覧会だ。


狩野山楽、紅梅図襖、17世紀初頭

小生が幼少時に知った日本の芸術家はそう何人もはいない。母が買ってくれた絵本か何かで雪舟をはじめて知った。叱られて蔵に閉じ込められた時、涙でネズミの絵を描いたそうだ。それがまるで生きているようであり、雪舟の画才が認められるきっかけになった。そんな話しだったが、これを読んだのは何年生のことだったか。少年・狩野山楽が、大阪城で掃除をするところを怠けて、竹ぼうきで地面に絵を描いていると、たまたま豊臣秀吉が通りかかった。落書きを叱られる所だったが、余りに上手なので、狩野永徳に画技を学ばせることにした。これもその頃に読んで知ったのだろう。だから、小生の記憶の中では、著名な狩野永徳より狩野山楽のほうが、なじみのある親しい名前であった。

上の絵は17世紀初頭に制作されたという。であれば、関ヶ原の合戦は既に終わり、権力の中心は徳川家に移り始めた頃だ。秀吉に密着していた狩野山楽は、豊臣の残党と見なされて命も危なかったらしい。それでも赦され、江戸に連れて行かれることもなく、京都に住んで狩野派源流の画風を守ることができたのは、本人の運もあるだろうが、造り出す作品に魅力があったからに違いない。

絢爛豪華の中に翳りと無常観をこめ、それでいて芸術的な永遠性を形として残すのは、言うのはたやすいが、至高の画技である。キーンに煽られて、小生も青空文庫からiPadに永井荷風「すみだ川」をダウンロードしたところだ。


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