バランスをとるために記しておきたいのだが、政治という次元で物事をみれば18世紀末以降の幕府政治はイデオロギーばかりが目立つのだが、経済や自然科学、人文社会科学など文化という次元をみると、日本全国で<プレ・モダン>なる時代が花開いた時代であったと思うのだ、な。そのきっかけとして、やはり享保以来の蘭学振興、実証主義精神の芽生えを挙げるべきだろうし、理念ではなく現実に目を向ける知識文化の気風は、商工業の発展と裏腹の関係をなしている点は、ヨーロッパ産業革命からも窺えることだ。
ヨーロッパは、伝統的な教会支配とキリスト教が科学的現実理解と対決したのであるし、東洋では儒学的宇宙観と実証主義精神が戦ったわけである。日本においては、仏教受入れも儒教受け入れも、中国や朝鮮に比べると不徹底だったのが、かえって幸いしたのだろうというのが、その後の19世紀、20世紀の歴史と結構関係している。そんな風に、小生、思っているのだな。
となると、日本では墨という筆記用具も所詮中国からの輸入文化であったのかもしれず、中国の模倣をして水墨画、南画を描いては見たものの、やはり<倭臭>は抜けず、超一流の作品を生み出すには至らず、それがひいてはジャポニズム的な独創性につながったのかもしれない。<ガラパゴス化>も悪いことだけではない。絶対的にマイナスであると評価されるべきものはないのだと。そんな風に考えることが割りと多いのだ。
前回は、新井白石を話題にしたが、元禄・正徳時代の日本画と言うと、まだ浮世絵らしい浮世絵は登場していない。そもそも江戸初期には版画技術も未発達で、文化らしい文化は江戸ではなく、上方で生まれていた。小生の限られた知識では、絵画分野であげるとすると、琳派と江戸狩野派、それと英一蝶くらいしか思い出せない。
尾形光琳、紅白梅図、18世紀光琳晩年
(出所)ウィキペディア
(参考)MOA美術館(熱海)
琳派の色彩世界は世紀末ウィーンを代表するグスタフ・クリムトに相通じるものがあるが、光琳にはクリムトのむせ返るような死の香りはない。もしも光琳が19世紀の江戸に生きていれば、退廃の中で暮らし、やはり永遠の青春と避けられない死をテーマとした作品を遺していたに違いない。上の作品は、あまりにも有名だが、作家晩年の作品であるという割には、活発な生命が底からにじみ出ているようであり、<底映え>というものを感じる。
英一蝶、十二か月の内正月
(出所)東京都立図書館デジタルアーカイブ
英一蝶は、4代将軍徳川家綱が将軍に就いて間もない承応元年(1652年)に生まれ、元禄・正徳に活動し、8代将軍徳川吉宗が改革政治を始めた享保9年(1724年)に世を去っている。彼が残した作品群を、いまならデジタルデータでどこにいてもネット経由で確認できるのだから、この30年間の通信技術の進歩はすさまじいものがある。
観ると、浮世絵のようでもあり、風俗画のようでもあり、平安以来の大和絵のようでもあって、蕪村を連想させる南画のようでもある。上の作品は初期浮世絵とでも言えるのかもしれない。これまた一蝶晩年の作品のようだが、延び行く若さがあふれているような、元気をもらえる一作ではないか。
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