宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、作品として余りに成功しつつあるが故に、世間の逆風も時にひどいようである。日本の右翼、韓国の反日の標的になったかと思うと、今度は日本禁煙学会のターゲットにもなってしまったようだ。
全文はここにあるが、初めの部分を下に引用しておきたい。
NPO法人「日本禁煙学会」が公開中の映画「風立ちぬ」(監督宮崎駿)の中のタバコの描写について苦言を呈している。教室で喫煙しているというのは、たとえばそれが<大学>だとすれば旧制は小学校から6年、5年、3年、3年となっていたから、旧制大学は現大学の3年次、4年次プラス1年に相当する。現在の中高が旧制中学にほぼ相当し、旧制高校と大学を併せた6年が現在の大学4年に対応していると言ってよい。要するに、戦前期の教育システムのほうが高等教育により長い期間をかけていたわけである。ちょっと話が脱線した …… 煙草のことである。だから、旧制大学生は大学入学時に成人していたはずであり、喫煙自体は認められていたと思われる。そして旧制大学生は現在とは全く異なり、ごく少数の者だけが進学できる文字通りのエリートであって、学生とはいえ紳士として自由と責任を与えられていた。そんな風に遇されていた点も忘れるべきでない。もちろん教室で喫煙できたのかどうか、大学の教室で喫煙することは日常的に見られていたのか、まあ色々とそれが適切であるのかどうかというポイントはある。大学ではなく、旧制高校以下の学校であれば、喫煙禁止であったと思うが、残念ながら、小生まだこの作品をまだ見てはいないので、これ以上のことは言えない。
製作担当者に送付した要望書を公式サイトにアップ。「教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、高級リゾートホテルのレストラン内での喫煙場面など、数え上げれば枚挙にいとまがありません」と問題視した。
それより上に引用した記事をみて、これはもう善意の社会運動ではなく、ありのままの昔の習慣をも正しい状態に作り直そうとする偽善ではないかと感じたのだがどうだろう。
確かに現在は禁煙が社会に浸透してきている。それには科学的正当性もある。しかし、小生の幼少期には父は家内で大体煙草を口にくわえていたし、小生を時々呼んでは口からドーナツ型の紫煙をはきだし、小生はそれに興じて何度もやってとせがんだものである。祖父の家に遊びに行けば、そこにはやはり紫煙がたゆたっており、父のとは違ったその香りに私は祖父の存在を感覚的に記憶したとも言えるのだ。そんな父や祖父から、あるいはまた叔父たちから小生は「もらいタバコ」による被害を被ったかもしれないが、それが<被害>であるとは主観的に考えてはいないのだ、な。主観的にそうは思っていないのであれば、それが<タバコ被害>であると客観的に指摘してみても、必ずしも幸福の増進には結びつかず、科学的に正当なことをしているだけの自己満足であるとも、小生、言いたいところなのだな。そうした言動は、社会的善意の名を借りた僭越であり、またそれは<偽善>でもあるのではないか。
人は、可能な限り、周りの人たちがしていることを認めあい、社会的に絶対に容認できない明確な理由がない限り、その人たちの幸福を壊すべきではない。自由と責任が幸福の基礎であり、他者の善意、まして善意の指導は、多数による抑圧と識別できないものなのである。このことを忘れるべきではないと思う。<悪意>は、悪意の衣をまとっている限り、いつか世の中から排除される。しかし、善意による抑圧は時に社会の中で罠となって永続し、人々を苦しめるのである。歴史上、注意するべきは、むしろこちらの方ではないだろうか。
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