モノの価値は、投入されたコスト、つまり汗と時間で決まるのであって、たとえばそれを欲しい人がコストを超える価格を支払おうという状況があるとしても、それは一過性の出来事である。市場における競争が自由なら、ライバル企業が参入してくるので価格を高止まりさせることはできないし、また価格を支配すること自体がアンフェアである。
要するに、まあ、ものの価値は努力によって決まる。そういう見方であって、コストは窮極的には人の手に帰着するので、労働価値説は日本人にとって感覚的にも、倫理的にも実になじみやすい理論であったのだ。
小生が勤務するビジネススクールでは逆である。『一生懸命やったからといって、努力したからと言って、自動的に報われるわけではありませんよね。そんなことは皆さん、お分かりでしょ?』と。何度言うかしれない。『価値を決めるのは顧客です』、ここから顧客志向経営が展開されるわけである。
夏の甲子園大会で優勝旗がついに白河の関を超えて東北勢にもたらされるか。楽しみに準決勝を待ったところ、残念なことに花巻東も日大山形も敗退してしまった。その花巻東の「小さな二番打者」である千葉翔太選手のカット打法が「ルールに反している」、「いや努力の成果だ」と、巷では又々議論が盛り上がっているようだ。
ついにこんな言い方も出てきている。
「甲子園への遺言」など野球に関する著作が多いノンフィクション作家、門田隆将さんは「千葉選手の活躍は全国の体の小さな選手に勇気とやる気を与えたはずだ。自分の創意と工夫でレギュラーを勝ち取り、甲子園の土を踏んだ希望の星」と活躍を称賛。その一方で、大会審判部の対応について「そのプレースタイルは、誰もができるものではなく、一生懸命努力して会得したもの。高野連はその努力が分からないのか。希望の芽を摘もうとしている」と批判した。(出所)産経新聞、8月22日「この努力が分からないのか!」。努力で価値が決まるのであれば、努力をすれば評価してくれるのであれば、企業経営者、中間管理職の仕事は極楽であろう。そんな思いがしきりとする小生である。
成果主義とは結果主義である。結果で評価が決まる。評価が努力に比例しない。確かに日本人の感性には反している。しかし、現実は運・不運がつきまとい、努力した人間の汗や涙はまったく顧みられることなく不条理な結果となるものだ。だからこそ、古代ギリシア人もローマ人も、中国人も、日本人も、勝敗は時の運と考え、神々の意思が人間社会の結末を決めると考えた。そのほうが現実に合うからだ。と同時に、敗者へのいたわりの気持ちも大切であると考えた― そこが単細胞的な成果原理主義とは違うところだ。
話しが脱線した。小生の亡父の口癖だが
人事をつくして天命をまつフェアであるはずの行為が、たまたまその時の見方でアンフェアであると判定されてしまうのも、不運の一例だ。意地悪な人間に意地悪な仕打ちをされたと考えるより、これも天命かと受け入れる方が、真っ直ぐな生き方でないかと、小生はこちらの方が好きである。
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