2014年4月17日木曜日

覚え書-早とちりの研究発表は許容範囲だ

小保方氏の「STAP細胞・研究不正騒動」がまだ続いている。昨日は、小保方氏が所属している理研内センターの副センター長をしている笹井氏が会見を行った。

井戸端会議の格好の話題になっているが、小生が考えてしまうのは、数学と自然科学との違いである。数学であれば、ある主張が正しいか誤りであるかを示すのに、何かを観察して実証する必要は全くない。その結論を主張している人が「証明」と称しているその論理的プロセスをチェックするだけでよい。どこかに論理的破綻が1か所でもあれば、それだけで主張はすべて崩れ去ってしまう。

もちろん主張が正しい可能性は残されるが、証明されていない以上、それは単なる「予想」でしかなくなる。

生物科学は実証科学であるから、論理的な誤りがあるかないかではなく、実際にそういうものが存在する、あるいは現象の帰結を予測できる。こんな検証が不可欠なわけだ。今回の論文には幾つかの不備があり、肝心の実験データの整理も不完全で、しかも重要な点については特許申請との関連もあるというので明らかにできない、と。そのため、公表したはずの論文の主張は、真なのか、偽なのか、そこが揺らいでいる。

どうも会見をきいていると主張は真と思われるが、その実証が不十分であるため、STAPの存在が証明できたわけではない。しかし、その存在を仮定しないとデータを説明できないので、「仮説」としてはやはり有効である。そういう受け取り方でいいのだろう。とすれば、確かに年の初めの発表は「早とちり」であった。

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こんな事態は、大きな課題に取り組んでいる時にはまま起こるものだ。実験データとは縁のない数学の仕事でも発生する。

「フェルマーの最終定理」という永らく証明できなかった世紀の難問があったが、1993年になってアンドリュー・ワイルズ(Andrew J. Wiles)が360年ぶりに解決したと突然発表した。人は皆驚いたが、それまでのワイルズの業績をみると、はなから否定するわけにはいかなかった。「最終定理の証明」は信じるに値したのだが、実はこの時のワイルズの証明には間違いがあった。その後一年間、ワイルズは証明の不備を解決できるかで苦闘を続け、一時は自分の早とちりを認め、降参しようかとも考えたようなのだが、ついに一つの閃きから最終的な解決へと到達し、今日ではフェルマーの最終定理は解決済みの定理となっている。

論理的検証だけですむ数学でも、大天才が早とちりをして、失敗しそうになる。まして運・不運や周辺条件の微細な違いから、安定した結果が得られにくい自然科学においてをや、ではなかろうか。

社会科学でも幾らでも類似例を挙げることができる。有名なのはMartin Feldsteinの論文 “Social Security, Induced Retirement, and Aggregate Capital Accumulation,”(JPE、1974)にある試算結果である。最近では2010年にラインハート・ロゴフ(Rheinhart & Rogoff)が発表した論文 “Growth in a Time of Debt,” (American Economic Review Paper and Proceedings, Vol. 100, Number 2, May, pp. 573-578)に誤りがあるというので、ちょっとした騒動になった-「騒動」といっても、学界限りの一騒ぎで、世間的に指弾をうけるという程にはならなかったが。

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確かに普通に注意をすれば「見落とし」や「計算ミス」は気が付くことが多い。健全な常識をもって自分の行っていることを冷静に見ていれば、あまりに酷い早とちりはしないものだ-ただ、第三者にあらかじめ研究結果を見てもらうなどは、普通はしないものである。

それ故、「故意の不正」とも受け取れるような間違いは、謝罪に値する。それは確かだ。他の研究者に迷惑をかけ、結果的に無駄な仕事に誘導してしまうからである。山を登っているパーティの先導がルートを間違えば全員が危険に陥る。

しかしながら、間違ったときに、『なぜ間違いだと認識できなかったのか』とか、『結果的に間違った主張をしてしまった責任をどう考えるのか』とか、まるでビジネス現場の損害賠償を議論するかのように触れ回るのは、これは的外れであると思う。利害を相手とするビジネスではなく、真偽を競う研究において、ある主張が間違っていたとして、それはマイナスの価値にしかならないのだろうか?そうではない。間違いにも価値がある。だからこそ研究はリスクが高く、採算には乗らないのだ。期待した結果が得られないにもかかわらず、『よし、よしっ』などと言っていれば、そりゃあビジネスではない。

ビジネスでは「過失責任」が厳格に適用され、「悪意」の有無も重要だ。研究はビジネスではない。成果が得られなかったとしても、そういう結果も予想しておくべきなのであって、それは「過失」ではない。「故意」に粉飾することも時にあるだろう。その動機もなくはない。やはり研究不正は起こりうる。しかし研究を共有知にするなら、「悪意の粉飾」から得られる期待利益はマイナスであるはずだ。特許を得ても、無効のアイデアなど活用されるはずはない。「早とちり」や「取り違え」は起こりうるものである。小生もクズのような計算結果に飛びつきそうになったことはある。思い込みがミスを誘い、早とちりや偏った選択をさせてしまう。とはいえ、「思い込み」は時に「信念」となり、「エネルギー源」にもなるのだ。

ビジネスは暮らしと直面しているがゆえに、不注意や失敗は直ちに顧客の損失となる。その責任が生じる。研究は、それとは違い、成功しようが失敗しようが、私たちの生活とは直接には関係がないのだ-「いえ、関係あるんですよね」と言えば、これ即ち「研究」の形を借りた「ビジネス」であって、だからこそ「産学連携」には以前から批判的な眼差しがある。どうも話題から外れそうだ。ま、筋論からいえば研究と暮らしには関係はないが、研究の成功は将来を豊かにする。だから、ただ成功を期待して待てばよい。これが理屈だ。

マスメディアは、世間の物差しを当てはめて、関係者が互いに傷つけあう状態に誘導するべきではない。それこそ社会的にはマイナスの貢献をしていると言われても仕方がない。

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