2014年4月3日木曜日

捕鯨にあくまでこだわるか

国際司法裁判所で日本の調査捕鯨は中止との判決が出た-但し、南極海においては、である。日本政府は、この判決を尊重する姿勢をとっている。いくらなんでも戦前の国際連盟脱退騒動ではあるまいし、気に入らない結論を出されたからといって、「じゃあ出ていく」と言える時代ではない。

オーストラリアにとってクジラはWhale Watchingの観光資源である。そのクジラを日本は捕食しているわけだから、いくら『鯨肉料理は日本の食文化、日本の伝統でござる、各々方もぜひぜひお召しあれ』などと薦めても、所詮は水と油だ。クジラをどう見るかで重なる部分はない。

ただ、オーストラリアの観光収入と、日本の捕鯨収入のいずれをとるかという経済的対立の問題なのだというと、『問題の本質はそんなんじゃないんだ』と声を荒げて反論する人はいそうである。そこには知的哺乳類であるクジラへの敬意、巨獣”リバイアサン”への畏怖の念が潜在しているかもしれず、より高尚な生の哲学、もしくはエコロジカルな主張が包み込まれているのかもしれない。

敗訴となった真因にしても別にあるのかもしれない。ある会話や、ある行為が決定的な原因であったのかもしれない。結論が出るまで長い話であったので、『▲▲が■■と発言したのはまずかった、あそこで◇◇を提案して、誰それに●●を説明すれば理解が得られたのだ』とまあ、ホニャララ、フニャララと、物事の進展はいくらでも詳細に分析、再現できるものである。

その昔、一国の運命を決する大事な決戦で敗れた総司令官が、『私の馬が小さな石につまづき、ちょっとした混乱が波及して大混乱に陥ってしまいました、それが敗因です』と、物事の本質はそんなものだと言いたければ言える、そういう面もあるというものだ。

ま、いずれにせよ小生は、所詮は経済問題なのだと思っている、クジラ問題は。

☓ ☓ ☓

小生も幼少時にはトンカツならぬクジラフライをよく食したものだったが、幸か不幸か、豚肉や牛肉のほうがずっと旨いと感じてきた。育った町には漁港があって海産物も美味だった。鯨肉のランクは低かったのだな。仕事を始めてから、時々、渋谷の「くじら屋」に行って懐かしい味を楽しんだものだが、そのうち疎遠になって、今では店がまだあるのかどうかさえ知らない。

日本の料理文化の維持保存というくらいなら、保存に値する『日本、食の遺産』は、クジラと限らず他の食材、漬物、調味料等々、もっとほかに多数の料理が絶滅危惧状態になっているのではないか。日本の食文化の全体を包括した総合的アプローチが望まれる。でなければ、所詮はクジラを食べたい日本人が「なぜ食べたらだめなんだ」と憤っている。そうとしか見てくれないのじゃあないか。

ともかく、食文化をいうなら国際的な広報戦略を積極的に展開する必要はあったし、和食への高い評価が海外で浸透しつつあっただけに残念だ。

☓ ☓ ☓

国際的広報戦略といえば、前稿でも中国の対日広報戦略について述べたように、中国が採っているプロパガンダは相当効率的である。

日本経済は、いま空洞化に悩んでいる。空洞化とは生産拠点の海外展開を指すが、それは日本国内では採算性がとれなくなっているからである。その原因には、円高がもちろんあるが、それよりは労働力人口の減少と実質賃金の高止まりがはっきりと見通されるようになってきたからだ。

日本軍による侵略の記憶に訴えかける中国の広報戦略は、日本という国のリアリティとは無縁になっているが、それでも過去においては真実であっただけに、反復して聞けば「刷り込み効果」が生じ、有効なネガティブ・キャンペーンになりうるだろう。それは、日本が海外に経済展開する際のコストを高め、それだけ日本経済から体力を奪うのである。その分、中国の海外展開には有利となり、すでに海外にいる華僑たちの利益にも適うであろう。これまた世界市場における経済対立問題ともいえる。

それと同時に、中国政府が日本の侵略に言及することにより、いまの中国政府の反民主主義的体質が見えにくくなるマスキング効果もある。自分の服の色がおかしいと感じれば、「おかしい」と言われるより先に、誰か標的になる他の人物の服の色を「あれはおかしい」と言えばよい。ましてその人が、数日前にもヘンテコリンな服を着ていたとすれば尚更だ。これも前稿で書いたことだ。

0 件のコメント: