2015年2月20日金曜日

春愁という言葉が当てはまっていた頃

ずっと春は嫌いである。特に桜の花は嫌いだ。

亡くなった母の誕生日は3月だった。手遅れの肺癌が見つかって、当時暮らしていた取手の団地から祖父、祖母がまだ健在だった郷里・松山で最後の療養をするために旅立つ前、家の庭前で咲き誇っていたのが満開の桜だった。なので、桜をみるとその日の心の底が抜けるような淋しさを思い出すのだ。

春を歌った楽曲は多い。シューベルトの清らかさにどことなく「生」の儚さが入り混じったような感覚が、小生大変好きなのだが、歌曲の中に「春に寄す」(Im Frühling)がある。
Still sitz' ich an des Hügels hang,
der Himmel ist so klar,
das Lüftchen spielt in grünen Tal,
wo ich beim ersten Frühlingsstrahl
einst, ach, so Glücklich war,
春の陽射しがさし始める頃、一人で丘に腰を下ろしているときも、僕は幸福だった…こんな風に始まる歌詞は、ああ僕が鳥であったなら彼女の歌を夏の終わりまで歌い続けるのに、と終わる。

シューベルトの『冬の旅』が気に入って毎日聴いていたころ、父の病気が発見された。方向も決めずに町を彷徨いながら耳に聞こえていたのは空を飛び巡る鴉の歌である。シューベルトには何度も空を飛ぶ鳥が出てくる。確か、あれは修士2年次の晩秋11月だったか…。

胃の手術をして患部を切除したものの2年後には癌が再発した。その前に会社を辞めた父は社宅を出て東京へ転居してきた。その前相談に上京した父は小生の下宿に泊まったが、本当に痩せていて病状の悪化が傍目にもわかった。小生が小役人の仕事を始める直前の春である。

まったく本当に、春はロクな思い出がない。ずっとそう思ってきた。そう思いながら、忘れたことはないか、意味が分からずじまいになっている記憶は残っていないかと、何度も反芻している。その度に昔の感情が蘇る。だから、春もシューベルトも鳥も嫌いなのだ。

春をキーワードに何か名画はあるだろうかと、犬も歩けば棒に当たる式に検索してみると、Casper David Friedrichの"Der Frühling"を見つけた。


Casper David Friedrich, Der Frühling, 1826
Source: KUNSTKOPIE.DE

今年の流氷は例年の半分程であるという。やはり気温が高めの暖冬なのだろう。今日、ストーブをつけて宅で仕事をしていると、友人との食事会から帰宅したカミさんが「どうしたのこの暑さ?あっ、31度になってる!」と大騒ぎをしていた。「こちらにいると気がつかなかったよ」、そう言ったのだが、マイナス数度まで冷える日はいくらストーブを燃やしても25度を超えることはない。やはり外は暖かいのだ。冬はもう終わりか……、そう期待した。

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