ただ最近つとに思うのである…、年齢が自分の仕事を決めるという因果関係は歴然として存在する、と。要するに、齢をとったら年相応の仕事に移るべきである。
大体、50をピークに視力が衰える。文字が読みにくくなる。あとは坂を下るように、立っていると痛くなる。何種類かの薬を毎日服用するようになる。それでも新規病状が増えてくる—当たり前である、そうして最終的には命が尽きると決まっているのだから。
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理想は生涯現役でも生物学的に、心身の能力的にそれは不可能である。楽な仕事は会社なら取締役、役所なら指定職、軍なら司令官、その他様々の名誉職なら周囲の人々の意見をまとめるのが役割となるので何とかなるものだ。もちろん優秀な子飼の部下が要る。これ即ち「日本的トップ」の典型なのであるが、案外、日本的昇進システムの基礎には生物学的自然がある。最近そう思うことが増えた。
となると職階の高い人が高い報酬を受け取るのは不合理ではないか。そう言われれば、確かにそんな一面はある。管理職を変えても業績はさっぱり変わらないが、実動部隊を指揮する中堅に良い人材をあてると、見違えたように活性化される。そんなことは何度も見たことがある。
つまりは「トコロテン人事」はいかん。そういうことである。
しかし、業務効率性を基準に人事を決めるとなると、最終的には韓流システムに沿って30代後半から「名誉退職」という言葉の下でリストラを進める。このやり方が最も効率的であるに違いない。そして、最も効率的なシステムは働く人々に幸福を決してもたらさないものである。これまた言えるに違いない。
社会全体として「効率」と「幸福」の間には越えるに越えられない深い溝がある。これも最近つとに感じることである。
資本主義の未来はこんな点から定まってくるかもしれない。いつの時代も、何かの問題を解決しようとして、気がつけば別の社会になっている。そんなものである。
完全なシステムはない。日本地生えの「トコロテン人事方式」と、それを補完する「集団主義」も、自覚的に使うのであれば人類自然の老化現象に沿った良いやり方である可能性はある。こんなロジックもあるように思うのだ、な。
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