何が有効かといって、イスラム教の最高権威が「ISILに加担する者はもはやイスラム教徒ではない。同組織並びにその支援者は全て破門する」と、もしも可能なら声明を出せば今後予想される悲惨なトラブルの半分は起こらずにすむであろう。
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しかし、イスラム教の最高権威は存在しないのだ、と。そんな解説を先日TVで聴いたばかりだ。ローマ教皇もカンタベリー大僧正もイスラム教にはいない-ま、キリスト教でもすべての宗派に最高権威がいるわけではないと聞いている。
とはいえ、サウジアラビア、トルコ、エジプト、インドネシア等々、イスラム教徒が広く分布している国の政府が上と同趣旨の声明を出すとすれば、ISILは「イスラム教徒」を詐称する殺人者集団であるという形式的条件を曲がりなりにも成立させることはできるだろう。
そのうえでトルコ国境を封鎖し、経済取引を遮断したうえで、外延的包囲戦術を徹底すれば、一般住民までもが飢餓に陥ることが心配ではあるものの、それにも目をつぶって厳格に包囲を維持することで最終的にはISILという組織を壊滅に至らせることができる。この位のことは誰にでも思いつける。そして実際にもこれに近いことをやっていくのではないかと予想することもある。
ただ逃げ道はつくっておくのではないか。そうすれば周辺諸国はISILを駆逐したという結果を示すことができる。それが単に"Throw Out Gargage"戦術であって、粉々に砕けたテロリストが世界に散っていくとしてもだ。やはり国連軍が警察機能を果たし、責任をもった鎮圧が求められるのだが、そんな状態を組織化する力はいまの国連にも米英にもあるまい。
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フランス人があれほどまでに表現の自由に執着するのは、いかなる宗教であれ、現代世界に生きる市民の生活を規律付ける権利は宗教には何もない。宗教的権威は飾りである。その宗教が、イスラム教であれ、キリスト教であれ、仏教であれ、何であれ、「神」の名において人々に何がしかを命令しようとする。そんな意図をもった人間は、誰であっても揶揄し、軽侮し、名誉を奪ってもよいのである、と。まあ、そんな確信をもっているのではないか。そうも思うようになったのだ、な。だとすれば、フランスの雑誌は記事の編集とデザインを間違えていた。
自分は人間でありながら「神」を名乗る。「神」でなくとも「預言者」を名乗る。そんな人物なり、組織があれば、必然的にその組織は堕落しているはずであり、単に収入を得て贅沢をしたいためにやっているだけである。そんな目線には小生も共感するのだな。「宗教的ペテン師」といえばマルクス的であるが、この種の怒りは16世紀に宗教革命の火ぶたをきり、以後100年間の宗教戦争をもたらすキーパーソンになった独人・ルーテルの怒りと同じでもある。
日本の宗教的権威・比叡山も武闘集団・一向一揆も織田政権で根絶やしにされ、欧州の宗教対立は17世紀のウェストファリア条約で峠をこした。中国は19世紀の太平天国の乱で混乱の極みに達したが、今は共産党政権の下で宗教勢力は逼塞している。
イスラム教世界の混乱は第一次世界大戦でオスマントルコ帝国が倒壊したことの副作用である。その副作用がイスラム世界の貧困化と欧米列国の利権によってますます激烈に進行している。イスラム世界はいま長期間の「乱世」にある。これが基本的な観点だろう。
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イスラム世界が脱宗教化に成功するか。脱宗教化した先進文明圏がイスラム教という宗教に居場所を与えて、飼い馴らすことができるか。そのいずれかしか進む方向はない。もし先進文明圏に飼い馴らされることが堕落であり、宗教として許容できないなら、イスラム過激派は勢力がゼロになるまで武闘を続けるしか道はない。
実質的に絶滅するまで闘うことを選んだ集団はこれまでにもあった。古代都市カルタゴもそうであった。ビザンティン帝国が15世紀に滅亡する時にも、皇帝と市民はトルコとの市街戦でほとんどが死亡し、キリスト教の都であるコンスタンティノープルと運命をともにした。
前回の大戦である第二次大戦では一発の核爆弾で20数万人が死んでいる。ベトナム戦争では双方合わせて150万人弱の軍人が戦死し、200万人以上が行方不明、さらに500万人弱の民間人が死亡している(Wikipediaより)。
今回の紛争は、これらの戦争に比べれば人類史的な損害にはならないだろうが、それでもイスラム教という世界宗教の歴史においては、一つの分水嶺をなすほどの大事件になるかもしれない。
確かに世界の問題であるが、それよりもっとイスラム文明圏そのものの問題としてより一層に深い問題である。
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