小学校の道徳が「特別な授業」になり、成績評価も行われることになったとニュースでとりあげられている。
たとえば、いま観ているニュース解説では『赤色の絵具を隣の●●君が貸してという。しかし、もう3回も貸してあげている。課題の締切は今日である。それでも貸したほうがいいのだろうか?』、こんな問いかけにクラスの児童たちが色々な意見を述べる。
貸さないという児童もいるし、貸すという児童もいる。ま、当たり前である。むしろ貸す人もいるし、貸さない人もいるのが世間の常態である。どちらもありうる。理屈で導く「正解」はない。正解はあり得ないのに、成績をつけろと言われて苦闘している現場の教師達の姿がよく伝わっていた。
道徳を特別の授業にした背景は、一つには「いじめ問題」。もう一つは「愛国心の涵養」という安倍政権の抱負がある。そんな解説をしていた。
いじめ問題の深刻化は道徳の授業がないためではないだろう。また、愛国心は常に絶対に正しいか。大体、「愛国心」があるとしても、とる行動が正反対になることもあるのじゃないか。愛国心は行動の指針にはならないものだ。
小生の叔父は今年80歳になるかと思うが、某金属メーカーの経営陣を引退して今は悠々自適である。その叔父は旧学制の最後の世代である。小学校にいた頃はまだ「修身」の授業があり、聞けばある年の通信簿には『明朗活発ナレドモ時ニ粗暴ノ目立ツコトアリ』と記されていたそうな。その叔父のすぐ下の叔父は、優等生タイプであったが、時に草群らに隠れて「恨みのある大人に」馬糞を投げつけるという誠に独創的な悪戯が得意であったという。この叔父は長じて金融マンになり、融資業務で活躍した。道徳教育の優等生は何かの役に立つのか・・・と憎まれ口は、まあ、やめておこう。
ただし事実として、明治期の自由思想が明治20年代以降から次第に反動化し、儒教道徳思想に裏打ちされた教育勅語が教育全般の柱となった時期を境にして、日本は対外戦争を繰り返すようになった。この事実は記憶しておいてもいいのではないか。人をいたわるモラルを学校で教えても、軍事力の行使を控える動機にはならないことがわかる。おそらく自社利益を求めてアグレッシブな略奪的経営を押し通す行為も学校で教える道徳で抑止することはできまい。大企業が零細企業に対して強欲な支配力を行使する誘因を小学校時代に習った道徳で抑えることも可能性としてはゼロに近いであろう。
福沢諭吉が『学問のすすめ』で展開しているのは、道徳が人間行動の指針として全く役に立たないという点であった。正にその点こそ、同時代の人々の胸に響く考え方であったに違いのだ、な。
正しい目的を得れば、人間の行動は自然と目的合理的になるものだ。アクティブラーニングであれ、旧式の対面授業であれ、道徳を行動規範として学ぶより、自分からそうしたいと思わせる方がずっとやる気がでるであろう。目的のない道徳それ自体が、ストレスを蓄積させるだけの結果に終わらないことを祈るだけだ。
道徳の根本には絶対的な価値の源泉が必要だが、無宗教の政府にできることは、素直な気持ちで協調性を重んじながら誠実に仕事に取り組むのを善しとする意識統一くらいだろう。
そのことが日本人にとって良いことなのか、悪いことなのか、小生には定かではない。
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