いま司馬遼太郎の歴史小説はどのくらい読まれているのだろう。
小生が若いころは、まるで『経営者の教科書』というか、司馬遼太郎を読んでいなけりゃ日本式経営の極意などは分からぬ。そんな「空気」が世を蓋っていたが、最近はトンと聞かない。おそらくブームは去ったのだろう。
学者や作家の出来具合は、ブームが去って、静かになってからジックリと検証するものだ。
知恵は静寂の中で、力は激流の中で
Es bildet ein Talent sich in der Stille,
Sich ein Charakter in dem Strom der Welt.
Source: Göthe"Torquat Tasso", Erster Aufzug, Zweiter Auftritt
まさにゲーテがいうとおりだ。 世間の喧騒は智慧を育てるには不向きである。
誰が司馬遼太郎ものを批判し始めただろうか…、いまとなっては中々思い出せないのだが、多分、佐高信あたりではなかったかと記憶しているが、藤沢周平の世界との比較論から司馬文学全体への疑問が提出されていたような気がする。もちろん、小生自身、世の中に遅れずに着いて行くのは極めて苦手な方だから、もっと早い時点で司馬歴史観には多くの批判があったのだろう。
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小生も時代の流行から影響を受けて司馬遼太郎はほとんど全て読んだ口である。一通り読んだあと、批判も多いことを知って、そんなに鼻につくかねえ・・・、そう思ったこともあるのだな。
最近、久しぶりに書店の文庫コーナーで司馬遼太郎『幕末維新のこと』と『明治国家のこと』の二冊を買う気になって読んでみた。両方とも『ちくま文庫』にある。
『司馬歴史観は浅い』という批判が多かったと記憶している。久しぶりに司馬節を聴くような思いであったが、「そんなに浅いかねえ」というのが正直な感想だ。
たしかに、マア、常識的である、というか肯定的、それも権力肯定的である。故に、英雄主義的であると感じる部分はある。歴史ってそんなものじゃないでしょう、と。その辺は、トルストイの『戦争と平和』とは反対の歴史哲学にたっている。とはいえ、そんな小説世界の構築法をとったのは、氏が新聞記者出身であったからであろうと推測する。ドキュメンタリ―では特定の個人の視点に立った時に、大きな時代の流れがどのように見えたか。そんな編集技術を用いることが多い。司馬遼太郎が語る人物や事件、歴史から、そんな現場レポートのような―良い意味でも、悪い意味でも、ヤラセや独断という虚構性までを混じえて―香りは確かに濃厚にあると思う。ただ、小生の感覚も正確ではない。
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要するに、浅かろうが、薄っぺらでもよい。というか、逆に薄っぺらであるほうが、ある意味合いで本筋であることも多かろう。
歴史を筆でつむぐのは大変である。窮極的に正確に記録しようと思えば、何十億という人間が毎日何をして、何を語り、何を実行したかを、全て記述する必要がある。が、そんなことに挑戦する愚か者はいない。
が、仮に思考実験として"World Historical Database"という情報源があり、そこには全ての人間の肉声(Oral Data)、全ての文章(Text Data)、その他あらゆるモノとカネ(Economic Data)、自然条件(Natural Data)が長期間にわたって保存され、検索できる。そんな超巨大データベースがあるとしよう。こんな窮極の理想状態においては、誰しもが同じ歴史的認識をもつだろうか?
いや、それは不可能だ。
こんな巨大な歴史ビッグデータが果たす役割は極めて限定的であろう。それは明らかだ。
そもそも隣同士で、何があったか全て分かりあっている中であっても、時に紛争は起こるものである。そんなとき、なぜ隣人が自分たちに敵意を抱くに至ったのか。何回聞いても分からないことはあるものだ。
データは起こったことを記録するものであり、起こそうと思ったこと、為そうと思ったこと、欲したことなど、心の中の状態はデータにはならない。「書かれたものがある」と反論するだろうが、それは皮相的だ。書かれたことを、なぜ書いたのか、なぜそう書いたのか、そんな人の心は書かれていないのだ。そして、人間社会の物事の進展は、それぞれの人の心の中による部分が大きい。だから、超巨大・歴史データベースが自由に利用できたとしても、一つの事件、一つの戦争、一つの時代を真に理解するという目的にはそれほど役に立たないはずである。
全てのデータが完備されさえすれば、歴史認識は統一されるだろう、と。そう思うのは幻想だ。
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司馬遼太郎を、時代小説ではなく、歴史小説として読む。そんな意識はなかったが、改めてこの辺の感覚を自分で整理して書いておこう。
大体、裸の王様もそうである、王様のロバの耳もそうである、世の中で真に大事なことは人は知っているものだ。歴史は誰でも知っている当たり前のことで動かされるものではないだろうか?
いやあ、違うね。世の中ってのは、誰も知らない秘密の原因で動いていくものさ…、そりゃあいわゆる「陰謀史観」ってヤツだ。受け入れられないねえ……だから、歴史のビッグデータなんぞはいらないンでござんすよ。ま、あっても邪魔じゃあないけどね。
だから普通の目線でいい。その方がよい。普通の人間なら、こんな場合に普通はこんな風に考えるはずである、人並みの目線で人物を再構成して、作中で生きているかのように行動させる、そんな風につくられる歴史小説は、案外、本筋をついているものである。精緻に深読みをして、芸術作品を作り込むような歴史小説は、その本質から既に歴史小説ではなく、時代小説にしかなりえない。こんなバランスにたっているのが、司馬遼太郎の歴史小説だ、と。ある意味で普遍的かつ大衆的だ。
とまあ、なぜ司馬遼太郎の歴史小説が一世を風靡し、その一方で批判にもさらされたか。その辺に思いを致したわけなのだが、改めて司馬氏の対談からも伝わってくるのは、『もう戦争はあるはずもないし、しようという気になるはずもない』。そんな見方である。
これまた司馬節だが、いま読んでも、やはり同感だ。
古代ギリシア世界を襲ったペロポネソス戦争は紛争ではなく「戦争」であった。日常的に繰り広げられていた武力紛争は単なる「事件」であった。そのペロポネソス戦争を現代社会にまで時空をこえて転送してくれば、それはとても「戦争」と呼べるようなものではない。ちっちゃな地域紛争である。
もはや世界は「戦争」ができる時代ではない。徴兵制?・・・意味が全然ないですよ、現代の戦争には。そもそも生の人間の密集部隊など投入すれば敗因になるだけだ。それほど戦闘技術は進化している。もう軍刀も拳銃も飾りになったと、小生は思っているのだ。第一、カネがかかるので軍事的技術革新を予算的に圧迫する。愚策だ。
しかし危険な職業は…、それは将来ともあるでしょう。
司馬遼太郎という人は、どうもこの点はしっかりと分かっている。そんな感想をもつ。
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民主党の新しいポスターが話題になっている。まだ(幸いにして)目にしたことはないが、世の母親たちに『徴兵制』への警戒を説くという文面らしいのだ。
まあ、徴兵制を心配させるより、トータルとしての軍事費拡大と社会保障費削減がセットになって進行しそうだ、と。そうアピールする方がずっと良いには決まっている。とはいえ『それでも内容は良い…』と言うような人が党を動かしているからねえ・・・。もはや論評は不必要だ。
国会で繰り広げられている「神学論争」も、論争としての出来栄えも本当に低品質だと思うのだが、それはともかくとして、一つ確認したいこともあるのだ、な。
君主制を定めた大日本帝国憲法から民主制を定めた主権在民の日本国憲法が出てくるはずはない。故に、本当は日本国憲法は明治憲法の改正ではなく、ゴチャゴチャした混乱のあと、日本が新しく選んで公布・施行したものである。ここは非論理的であるのだが、実際に行われた明治憲法の憲法改正による日本国憲法公布のほうが、ずっと非論理的である。
実際にあった事実は、旧憲法を否定し、廃棄して、新憲法を採ったのに決まっている。自明の事実だ。それが分からないの?この問いかけに、どう答えるかで現代の日本人は二つに分かれる。
一方のグループは旧憲法下の政府が行った(たとえば)対朝鮮強制労働をアッサリと認めるわけである ― というより、旧政府を擁護する立場に立つことを自ら問題と考える。他方のグループはそんなことはないと旧憲法下の政府を擁護するのである。そして非論理的であるのは、後者のグループである。
基本的認識の違いに由来する対立をアウフヘーベンしたいなら、改めてどちらが多数であるかを確認するしかない。それには憲法改正の発議と国民投票が最良の手続きである。それも分かりきったことである。分かりきったことを避けているから内閣支持率は下がるのだ。
しかし、いずれにしても旧憲法で実施されていた徴兵制などは再現しようがない。100年後の日本でも無理だろう。というより100年たつ間に徴兵制など無意味であることを、いくら低品質の政治家であっても理解するであろう。
戦前から戦後への日本の歩みをどう思うとるネン?
本当はこの一点で大きな認識ギャップがある。複雑骨折を経たあと、何とか国家として歩いてきた日本の後遺症がある。その古傷をなおす。そんな意識に立つなら同じ神学論争でも確かに国民の利益にかなうだろう。