いわゆる「改憲派」は、日本国憲法の制定過程がいかにも情けなく、敗戦後の占領時代に押し付けられたものというこだわりがある。
しかし、このままの状況で行くと、初めての憲法改正が首相の提案どおり、2020年に施行されるとしても、それはそれで実に情けない憲法改正に終わる。そんな可能性も無視できないと思う。
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憲法の勉強は小学校の授業でもある(はずだ)。中でも戦争放棄については、特に重要性が高い事柄だと思う。
小生の中学校時代であったか、高校時代であったか、それは忘れたのだが、いまでいう「公民」、当時の科目名なら「政治経済」の授業であったと思うが、たまたま第9条の話になった。社会科担当の教諭が『・・ですから、日本は戦争を放棄しているわけですね。で、戦力は持たない。そうなっています。つまり、自衛隊は戦力ではないという話しです・・・』と、そんな話があったように覚えている。その時、10代であった小生は、『ということは、自衛隊が持っている武器は使わない、使わないから武器ではないってことだよな』と、周囲のクラスメートとひそひそ話をしたような記憶があいまいなまま残っている。
戦後日本を支えてきた「正統派憲法解釈」であると言ってもいいだろう。
が、この憲法解釈が日本社会の「本音と建前」を学ぶ事始めにもなっているとすれば、やはり情けないわけであり、きちんと筋を通すとすれば「自衛隊を解散する」か、「戦力をもつと書く」か、この二つのいずれかになる。
潔癖なティーンエイジャーの感覚からみて憲法の授業は非常にキレが悪いのは仕方がないのである。「現実には」という議論は憲法学でできればするべきではないだろう。
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漫談ではないが、あれから50年。
憲法学者は、自衛隊の存在、自衛隊が保有しているハイレベルの武器、武装。持たないはずの「戦力」とどう整合させて行くのか、この半世紀の間、自分の専門分野についてほとんど何の学問的進展をも示せず、何の草案も提案もなしえなかった(と、専門外ではあるのだが、そう見ている)。
安保関連法が成立したあと、今後の進展について予想したことがある。2年前の投稿に書いている。そこでは集団的自衛権の容認と安保関連法の制定がショック療法になって、これまでとはレベルの違う新しい法理論が専門家から提案され、新立憲主義のような考え方が立ち上がってくる、と。そんな風に予想していた。それでも、議論の収束には時間がかかり、安倍現首相の任期中には改憲は難しいだろうと、そう書いていた。
ところが、今のままではまるで住所変更届でも出すような感覚で、「行政の一環」として、日程どおりに安倍現首相の任期中に憲法改正となってしまうかもしれない。
ちょっと憲法のこの条文、困るんですよね、なおしましょうかネ(→修正:なおしてもらいましょうか)。
そんな感覚である、な。
そうなったら、そうなったで、今度は『この改正は当時の安倍内閣に押し付けられた条文です、実に情けない』と。
まあ、少数派からみれば憲法は「押し付けられたもの」といつでも見えるのだろうが、もっと情けないとすれば憲法学界から何の学問的議論もおこってこないことだ。
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