2017年5月5日金曜日

断想: 無常ということ

北海道の港町にも桜前線が到達した、と思っているうちにもう桜吹雪である。

明治の正岡子規以来、俳句の極意は写生であり、叙景であると言う人は多い。しかし、目の前にある物をそのまま言葉にしても、中々いい俳句にはならないものだ。やはり作る人の心情が伝わったところで、傑作は傑作になるというものだ。写生だけではダメであるし、美しく作っただけでも感動はしない。
夏草や 兵どもが 夢の跡
むざんやな 甲の下の きりぎりす
憂き節や 竹の子となる 人の果て 
旧里や 臍の緒に泣く 年の暮
どれも芭蕉の名句である。が、このように並べて見ると、まったく違ったところで、違った言葉で出来ている俳句ではあるが、伝えようとしている思いはたった一つであることがよく分かる。

それは何より「人の世は儚く、人生は短い」ということだ(と思う)。目に見えている全ての外界は仮の姿であるとする「無常観」とも言える。世界は無常であるが故に、過去と現在が時間軸に順序付けされず、そのまま同じものの重なりとして認識されているという哲学もそこにはある。先日来、本ブログでも投稿しているが、「存在」を時間の中にのみ見るという立場も同じである。

人は過ぎ行くが故に人でありうるのだ、と考えるとすれば人間はなんと言う孤独で、さびしい「存在」だろう。いや「存在」という名称で呼べるかどうかも分からないのが人だ(と思う)。

存在、それはつまり流転と見る立場は、仏教思想の影響下にある日本文化ならではのものと思いがちだが、そうと限ったことではない。

たとえば12世紀に生きたペルシアの詩人オマール・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』の中の一句:
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面、星の額であったろう。
袖の上の埃を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女の変え姿よ。
芭蕉が俳句に込めた世界観と、ここに歌われている儚き世界と、どこが違うだろう。


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