確かに、信教の自由や思想の自由が奪われることの惨めさは、それこそ「表現」に尽くしがたいものがある。その惨めさは、おそらくは少女時代のマリア・スクロドフスカ(後のキュリー夫人)が自国の国家元首の名を教室できかれ、どうしても自国を占領したロシア皇帝の名を答えることができなかったという、そんな幼少期に感じる理不尽な力の意識に相通じるところもあるだろう。
しかし、最近はとても鼻につくというか、鼻を刺激する腐った臭い、大変高邁な理想である「表現の自由」とは全く似つかわしくない卑しい動機が入り混じっているような感覚に襲われることがある。
そんな感覚を覚える人が、万が一、増えているとすれば(大げさにいえば)民主主義の危機だと思う。ま、いまのところ小生の言語的アレルギーの発症くらいですんでいるのだと思うが。
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それは、人間 ー 職業的には作家であっても、研究者でも教員でも、あるいはビジネスマンをやっていても構わないのだが ー 個人としての立場ではなく、マスメディアという会社に所属する記者(=社員)としての立場にある人、会社から出演を依頼された人、あるいは経営幹部が自社が出版・放送するメディアを利用して、「表現の自由」を主張している時に特に強く感じるものだ。
その時の「表現の自由」とは、「報道の自由」と結びついていて民主主義社会の不可欠な構成要件をなすものであるという主張と一心同体の関係にあるのが普通だが、実は「表現」ではなく「営業」の自由を指しているのではないかと感じることが多く、言い換えると「販売部数拡大の自由」、「視聴率引き上げの自由」、「利益追及の自由」が各社の本質的動機になっている・・・というか、『なっているのではないか』という疑念の存在自体が、それを聞いている小生の心理を苛立たせる。そんな状態であるのだな。
憲法でいう人権は法人企業の営業の自由とは全く次元が異なる。20年間努めてきた会社が倒産して職業を奪われたからといって、国はその人の人権を保障する義務はなく、失業状態が法の下の平等に反するわけでもない。保障するとすれば、失業保険を通じて生活基盤を保障する。そういう話になる。すべては経済の議論なのだ。
経済の議論(=カネのやりとり、毎日の暮らし)をしているときに、表現の自由やら、内心の自由やらを話題にすれば、議論が混迷するのは当たり前だ。何を作って売るにしても、それは自己表現の自由だなどと議論する愚か者は(多分)いないはずだ。そんなことを認めれば、市場経済システムが破壊されるかもしれない。
経済的自由の原則とは、自由である正にそのことにより結果に対して責任を有するというものだ。製造物責任はその観点に基づくし、汚染者負担の原則もそうだ。
マスメディアが唱える表現の自由とは、実は営業としての報道(というか、情報めいたものを提供すること)の自由なのであるから、企業行動の結果には責任をおう。これが出発点になる、というのがロジックだ。しかし、メディア企業は憲法上の不可侵な権利である「表現の自由」、さらにはどこで規定されているか小生はよく知らないのだが「知る権利」などに置き換えて議論することが多い。
民間企業であるマスメディア企業が「表現の自由」を口にする時、どことなく下卑た感覚に襲われて、とても不愉快になることが多いのは、それが「営業現場の戦術」になっている、というか「まさかそうではないよね」という疑いがあること自体が既に問題だ。この心理状態はとても解決困難なのだ。
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