2017年6月15日木曜日

メモ: 文科省の組織的危機?

小生のカミさんの祖父は戦前期に地元の高等女学校の校長をやっていたが、それ以前は内務省勤務の役人であったので、文部省が管轄する高女の校長は官界では筋違いのポストであり、文部省から見ればポストを内務省に一つ奪われたのだと思っている。

こんな人事が可能であったのは、内務省(及び文部省)が主導する国民精神総動員体制が昭和12年にスタートしたことも大いに与っていたのかもしれない。(義理の)祖父は、校長在職中に薙刀を正規科目に導入するなど国民精神の発揚に幾つか貢献したと聞いている。が、その分、引退した戦後の日々は辛いものがあったに違いない。いずれにしても、ずっと昔のことで、小生、カミさんの祖父とは直接話したことはない。

その内務省は、軍国主義日本と一心同体であったという科で、戦後になりGHQにより完全に解体された。陸軍省・海軍省の消滅は当たり前にせよ、非軍事部門で完全に解体された巨大官庁は内務省のみである(はずだ)。まあ。消滅という意味では司法省と法務省とを比べるべくもなく、こちらの方がより厳格であったかもしれないが。

いま進行中の「加計学園騒動」は、最初は森友風のスキャンダルに見えたが、いまや内閣府対文科省の官庁間対立、規制緩和を推進する政権派とそれに反発する官僚派の対立、更には地元の愛媛県の前知事で文科省の大物OBでもある人物と今回の騒動の首謀者である前次官、この二人が率いる文科省内の派閥対立の様相も呈してきており、ここにきて非常な盛り上がりを見せ始めた。

ここまで「燎原の火」のように騒動が広がってくると、なるほど国会は一度閉じて態勢を立て直したい。安倍現政権がそう願うのはごく自然だ。まあ「第一次でも特有の鈍感さがあったしねえ、危機管理の失敗だよなあ」と言うのはたやすい。どちらにしても、これから夏にかけて霞が関人事の季節となる。予想するに、今年度は大荒れ必至だろう。いずれ世間の関心は別の話題に移るだろうし、どの官庁のどの局長がどんな考え方の持ち主で誰の派閥に属するかなど、誰にもわかるはずがないし、関心も持たれないだろう。

ある無責任な報道では「文科省内奇兵隊(=喜平隊)」の蠢動を予測したりしているようだが、残念ながら時代は幕末ではなく、現実には高杉晋作というより「ミスター通産省」と称された佐橋・元通産事務次官と佐橋派(国際派に対する国内派)が辿った軌跡を文科省・喜平隊は辿っていくのだろう、と。そう憶測している・・・すまじきものは宮仕え、である。組織内主流派として我が世の春を謳歌した人間集団が、豈図らんや「一夜」にして没落し、落魄した晩年をおくる定めになるのだから。この種の悲哀は、たまたま1990年代に銀行経営幹部に出世したエリートも同じであったし、たまたま2011年3月の福島原発事故発生時に経営幹部に登りつめていた東電幹部も同様であった。まったく宮仕えなど出来ればするべきではない。

これは予測であるが、現政権が長く続くようであれば、文科省本省の局長級、更には課長級ポストの幾つかが「官庁間交流の拡大」という名の下で経済産業省、総務省あたりにあけ渡されていくのではないだろうか。ひょっとすると、国立大学の事務局長、都道府県の教育長、市町村の教育委員会の相当数も10年程度が経つうちに総務省・自治官僚に徐々に侵略されてしまうのではないか、と。この程度の弱肉強食の競争原理はいまも現実に霞が関界隈では働いている。

これらの進展は官庁人事欄を見るくらいしか確かめようがなく、せいぜい『文藝春秋−霞が関コンフィデンシャル』で一般の人は知るくらいだ(文科省の人事はほとんど書いてもくれないが)。いやはや「前事務次官」ともあろうお人がねえ・・・意地は通るのかもしれないが、長い目で見れば「大暴発」であるのは必定だ。自分を慕ってくれる若手が哀れではないのだろうか。

「組織防衛」には「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」ことがもっとも重要なのである。たとえ都落ちをしても、やがて「天施り日転じて」時節がやってくるのが世の習いだから。まさに"Die Alte Kameraden"でも歌われるように
Hast Du Sorgen schick' sie fort, 
denn noch immer gilt das Wort, 
schwarz und dunkel ist die Nacht, 
immer kurz bevor der Tag erwacht. 

Leid und Kummer das vergeht, 
weil die Welt sich weiter dreht, 
darum hebt das Glas voll Wein 
und laßt uns alte Kameraden sein.
明けない夜はない。世は必ず変わる。生き延びて旧い戦友たちと祝杯をあげることが一番ではないか。

追記:
それにしても、「メディア」、「報道」と総称されているとはいえ、媒体によってこれほど大きな質的差異があるのかというのが正直な感想だ。既に、加計学園騒動についてはネット上に数多くの意見・情報がアップされている。検索すれば誰でも容易にそれらの記事内容を読むことができる。すぐにだ。紙のゴミも出ないし、余計なCMもなく静かだ。そして、すべてフリーである。同じフリーのTV報道(ワイドショーも含めるとして)の情報精度の低さ、質的劣悪さは現時点の豊富なネット上の記事と比べても明白だ。大手新聞メディアは最新記事を有料購読にしているところが多い。ところが「最新記事」がまったく信頼できないことが、ここに来て明白になりつつある。総じて見ると、情報を提供するという役割を果たす上で、既存のメディア企業が優位にあるのは「スピード」だけである ー そのスピードも一部のトピックについてはYouTubeやFacebookに負けつつあるが。そして「内容」の劣悪さは余りにも明白だ。「早く知りたい」という需要を充すためにサービス料を支払うという理屈は確かにある。しかし、これほどアンバランスで一面的な情報にどれほどの利用価値があるのだろう。21世紀の情報インフラとして考えるとき、少なくとも現在の日本国内の大手マスメディア企業(特に、社員(?)の手になる内製サービス)は<差別化劣位>に置かれつつある。大手マスメディア企業は情報産業における百貨店であると言っても今後そう大きくは間違わないだろう。

このトレンドをそのまま延長して予測すると、いま大手マスメディアが行なっているいわゆる「世論調査」も、近いうちに<インターネット世論調査>が本格的に社会全体に定着し、リアルタイムで「ソーシャル・センチメント」が誰でもすぐに把握できるようになるはずだ。そうなれば回答者数は現在の千何百人ではなく、数万人オーダーになるだろう。標本誤差は無視できるほどになり、どの機関がやってもほとんど同じ結果になる。故に、メディア各社が世論調査にカネを使う動機はなくなり、おそらく新興企業が最先端の広告アルゴリズムを活用して運営するだろう。特定の会社や経営幹部の利益・思想から影響されにくいという点では、これこそ「マスメディア」の真の形になるはずだ。追記としては長くなったが、今日は(6月16日)これだけを書いておこう。

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