さてと・・・文科省の一課長補佐が作成した文書が(おそらく上司の許可なくだろうが)マスコミの手に渡ったというので世を騒がせている。そのこと自体の適否はさておくとして、これは「単なるメモである」という説明に対し、「何をいうか!書いてあることは真実だろう」というので改めて「行政文書」は何かという神学論争が始まりかかっている・・・。ホント、日本の「ジャーナリスト」は神学論争が好きなのだ。
”Ah...What... ah..what is an official document?"
「行政文書とは何か?」を英語の質問に訳するとなると、どう言えばいいのだろう。返ってくるのは"What?"の一語だろうと思うのだが。
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複数の官庁間で文書を確定する時は、いわゆる文案について「合議」(アイギと読む)をとる。それは公式の会議でもそうである(はずだし)、大事な打ち合わせでもそうである(はずだ)。
まず普通には、課長補佐クラスがメモをとり、それを課長にあげる。課長は自分のメモや記憶と照らし合わせて、多少の修文(シュウブンと読む)をほどこす。それを二人で局長室に持ち込み、改めて局の方針を決める。そこで一部の内容について「ここまで書く必要があるかどうか」、「あれも書いておくべきではないか」等々の話もする。必要に応じて、局レベルの文書に直し(ここで日付と担当局名が入る)、それを次官にあげる。もしそれを大臣にも報告するとなると、他の関係省庁が作成している(はずの)議事録と食い違いがないかどうか連絡をして「合議」をとることもあるーつまり相手の作成した議事録を「こちらに寄越せ」と電話をする。電話を受けた側は、昔は担当者が実物を持っていくこともあったし、ファックスで送ることもあった。今ではメールに添付しているのだろうか。
まあ、要するに「空中戦」の前に「白兵戦」をやっておくわけだ。そのプロセスの中で、補佐より下の係長や担当者まで下りれば多くのバージョンのメモがある。これらは全てどこかで参照される(口頭で聴くだけだ、コピーとしてはまず配布しない)。もちろん内容は(当たり前だが)微妙に違っているが、公式には課でまとめた文案が残り、局長室で決まった文案が局としては残る。
大体、このようにして行政プロセスは(今でも)進んでいっていると思う。もし「合議」をとらないと、省庁間で異なった現状認識、問題意識が残ることになり、たとえば次官会議や(最悪)閣議の場、更には国会の委員会審議の際に食い違いが露見することになり、その場合は「閣内不統一」の批判をあびることになる。
つまり、「政府」とは一つのみ存在する(→閣議は全閣僚の一致が原則)のであって、官庁は「政府」の手足に過ぎない。官僚主導とは手足が自分の意志をもつ。政治主導とは内閣という頭が指示を出す。雑駁に言えばそんな違いである(と小生は理解している)。ま、どちらが主導するにしても意志の所在・最終責任の所在は唯一つでないと混乱する。その意志の所在が内閣ならハッキリしているし、あらゆる案件について主管省庁(=最終的に責任をもつ官庁)は一つだから担当省庁の意志で決めてもよい。それはそれでよいのだ。どちらにしても行政府の意志は一つしか存在しない理屈になる。要は、政府として意志統一ができている。これが大事で、それを事後的に跡付けられる文書が「行政文書」でなければ「困っちゃう」でしょう。試験でいえば、計算用紙は答案ではない。これと同じである。
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故に、(特に)所管省庁が複数に渡る場合は(単独省庁の場合でも所管する部局が複数に渡る場合は似たケースになるが)、公式の公開文書か、少なくとも「合議済み」文書のみを「行政文書」としておかないと、政府部内がカオス状態に陥ることはほぼ確実だ。
【追記 6月26日】 たとえば原発事故以前に東京電力社内には15メートルを超える津波を予測範囲に含めておくべきだという意見があったと報道されている。小生も、多分そういう意見は社内にあったのだろうと思う。実際、会社(役所も同じだが)には色々な人がいて、様々な意見があるのが普通の状態なのだからー奥さんたちが井戸端会議をしても同じ話題に対して色々な意見が出てくるだろう。しかし、そんな意見があったということと、社内組織で認知され、意思決定プロセスのラインに乗せられ、採用されるにせよされないにせよ、一つの見解として会社で共有するようなポジションを占めていたかどうかは、それこそ公式の社内文書を読んで見ないと何も言えない。『ああアレ?あれ、重要だったの?』、人間集団の意思決定は時間がかかり、面倒で、難しいのが現実だ。実際、小生だって新人の小役人であった時、生意気に参考資料を書き、部内会議で発表もしていたのだ。小生のそんな参考資料があったことを根拠に、事後的に何かが暗転したとして、「中にはこのような意見もあったではないか」と、そんな批判を外部から述べる人がいれば「それは違います、現実にはそれはそんな意見もあったということです」と。過去がまだ現在であった時の状況を分析するのに、未来の人の観点を持ち込んでは何だって言える。要するに、役所の中のメモ書きは、組織の意見でもなく、書いた本人ですら責任を持てない、一つの情報として提供する、そんな物であることもあるのだ(というより、そんな物が多い)。しかも、本当に重要なやりとりは、メモではなく、お茶の時間の雑談から得られることもあったりして、そんな時はメモは紙くずとなり、最終案は最初から書くことになる。いずれにせよ、課の最終版には日付と担当課名が入り、局の最終版にも日付と担当局名が入る(はずだ)。だから、メモを行政文書として残せ、あとで検証するからと言われると、現場はビビるだろうし、小生などは「大丈夫かねえ」と感じたりもするのだ。
アメリカや欧州の官庁でどのような事務の進め方をしているか詳細は知らない。日本の官庁の事務手続きも段々と変わってきているのは確かだ(昔はインターネットもワープロもレーザープリンターもなかった)。それでも中枢部の方針を末端まで意思統一するまでの手順は大きくは変わっていないはずだ。日本人の美意識や和の精神がガラッと変わらない限り、根幹の部分はこれからも変わることはまずないだろう。
文書管理規則まで上から網をかけられると、現場は困るだろうねえ。多分、マクロ経済のUnderground Economy(=闇経済)と類似の対応物である「裏帳簿・裏文書」が内部に蓄積されていくだろう。
企業も政府もすべて「組織」は結果がすべてだ。企業は利益をあげてナンボ、政府は多くの国民を豊かにしてナンボ、であるー政府は国民に幸福を与えるべきであるという問題は既に投稿済みだ。全て「組織」には目的があるのだ、な。途中の文書管理は、なすべき業務を最も効率的に、やりやすい仕組みで設計しておくのがベストだ。それには「慣行」を尊重するべし。アカウンタビリティやモラリティを組織戦略に持ち込むのは、小生の感性にはまったく合致しない。この点では、小生は極右なのかもしれないのだ。
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