2017年9月29日金曜日

「政権選択選挙」よりこう言うのがよい

マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。

見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。

民主党政権の失敗は東日本大震災・福島第一原発事故への対応が拙劣であったことが主因とされているが、副因として株価低迷、雇用悪化、デフレ深化という経済的ファンダメンタルズが足を引っ張っていたことは無視できない。尖閣諸島国有化にともなう日中関係の極端な悪化も大きなマイナスだった。衆議院議員選挙の投票は日本の政治に直結する。包装紙ではなくコンテンツ、ムードよりはファンダメンタルズが重要であるのは当たり前だと。これが常識だった。

現政権のファンダメンタルズは経済面では必ずしも悪くない。格差拡大は確かに改善されていないが、底上げはされているのは事実だ。株価は上がり、足元の景気をみると今後もっと上がっていくだろう。いわゆる「アベノミクス」の評価はまだ微妙だが、民主党政権時代の経済状況を思い出させるだけでも有効な反撃となるのは事実だ。希望の党から立候補する新人の力量はまったく不明。

こう考えると、突然参入した希望の党と化粧直しの後の民進党には勝機はないと考えるのが常識に合う。また合理的でもある。が、マスメディアを味方につけたイメージ先行・ムード醸成戦略は時に見事に奏功する。日本新党ブームもそうであった。が、日本新党ブームの時は、ブーム以前に消費税導入、リクルート事件、バブル崩壊の三連発があって反自民党ムードが蔓延していたという決定的背景がある。そこに日本新党は乗じることが出来た。無手勝流ではない。やはりファンダメンタルズの説明力が高いのだ、な。

森友や加計学園の問題。どうみるか?しかし、あれが経済社会のファンダメンタルだとは到底思われぬ。むしろ「不祥事」であろう ー そうは思わない人たちは不祥事ではなく、「汚職」だと思っているのかもしれないが。

そういう意味では、現在の日本社会におけるテレビ、新聞といった伝統的マスメディアの影響力、つまりはムード形成力、ブーム創出力を評価できるという点からも、今度の選挙は面白くなった。「面白くなった」ことだけは事実である、な。

それにしてもツイッターやフェースブックを駆使した選挙運動の名手が日本にも登場しないのでござんしょうかネエ・・・。これからはネットが主戦場になるってもんだと、そう思われて仕方ないんですがネエ。

ま、マスコミ大手は規制産業であり、電波市場の寡占が認められたり、あるいは価格競争の埒外に守られたりして、今なお政府の保護下にある。平時ならお目こぼしされるような偏向報道も選挙期間中は厳しくモニターされましょう。摘発など荒事にはしないでしょうが、第三者が問題視する発言をして、選挙後に何かの政策対応につながっていくかもしれません。この辺も「面白い」見どころかもしれない。

2017年9月28日木曜日

選挙戦: 政治の一寸先は闇だと思ったが・・・

政治の世界の一寸先は闇だと思ったが、安倍首相による唐突な解散宣言。その次の、民進党の事実上の解党と小池百合子氏が立ち上げた「希望の党」との合流方針―確かにまだ方針の段階ではあろう、代表の独走に終わる可能性もある以上は。いや、やっぱり出てくるものは出てくるネエ。そんな状況になってきた。

またか・・・というデジャブ感がつのる展開ではあるが、なるほど一寸先は闇であったには違いない。首相が奇襲を選ぶと、周囲の敵もまた夜襲で応じた、と。こんな感覚かな?

ただ、希望の党の代表になる方向の小池百合子氏は国会議員でない。なので、憲法の規定から首班指名の対象外となる。政権をねらうなら都知事を辞めて国会議員に戻らないといけない。戻ると決意すれば、都知事時代の実績を問われるのは確実だろう。そうなると、確かに話題は提供したが、『ちゃぶ台返しをしたまま後始末を付けていない』と批判される可能性が高い。特に地盤の東京都内で批判されるだろう。どうするのだろうか・・・?

それから希望の党は「消費税率引き上げ凍結」を公約に掲げるらしい。

保守的な「小さな政府」を志向するなら選択するであろう方向だが、そうなると前原氏、というか民進党の年来の主張である教育無償化は実行不能になるのではないか。

原発ゼロは良い方向かもしれないが、地球温暖化を考えれば再エネに舵を切るということだろう。となると、炭素税など環境課税を強化すると言わなければ電力料金が上がりすぎて、理屈が通るまい。まして電気自動車(EV)の普及など、電力需要は増加が見込まれている。電力料金は国家戦略レベルのキーポイントだ。しかし、このようなイシューを小池氏は今まで問題提起しては来なかったように思う。自分自身の<宿願>とは思っていないのではないか。



具体的に検討していくと、<どこの馬の骨じゃい>と言われかねない印象だが、しかしいかにも<劇場型>にふさわしい脚本である。エンターテインメント性を求めるマスコミは支持するだろうし、浮動層もそれに煽られて支持する可能性は高い。安倍内閣に辟易としている保守支持層は本当は多いはずだ。現在の強気一辺倒の北朝鮮外交にも疑問や批判、不安を感じている人も多かろう。

政治家として、それらしい実績を残してきたとは言えない小池氏ではあるが、あまりに乗り心地が悪く、代わりの船を探していた人たちには格好の選択肢になることは間違いない。投票日が迫っており、乗り換える船の行き先を確認するなど、考える時間があまりないのも幸いしている。

与党は党首による政策討論TV中継を提案してくるのではないだろうか。

お互い、楽な戦にならないのは間違いなくなってきたが、これだけは言えそうだ。小池氏が国会議員に打って出ない限り、風はこれ以上は強くならないだろうし、打って出るなら在職1年で中途で都政を放棄するという批判を免れない。気になるのは、劇場型政治の大家であった小泉純一郎氏は、郵政改革を長年主張した"Single-Issue Politician"であり、この一点に命をかけてもいいというフレーズが似合っている一面があったが、小池氏にはこれという宿願がないように見受けられることだ。

リスクの高さは小泉氏の郵政解散をはるかに上回っているというべきだろう。そのリスクは、選挙における勝敗のリスクを指すものであると同時に、仮に勝利して政権についた後の政権運営にまつわるリスクでもある。

今日の結論:

格言としては『信なくば立たず』というのは今だに有効だと思う。プロモーションはもちろん大事だ。しかし、トレンディーなイメージ戦略が、軍事リスクが現実に存在する今の日本の情勢の中で、それだけで単独に政権に近づくほどの大勝利をもたらすものだろうか?小生は疑問なしとしない。それから有権者との約束を1回でも破った政治家はそれが終生の傷となり大成はしないのではないか?政治は水物だが、一応、これを今後の予測としておく。

2017年9月27日水曜日

内部告発の正当性と森鴎外の見方


先日投稿した『ずっと昔の「文春砲」?』で永井荷風による「森先生の事」を引用した。その中で文学雑誌「新潮」が森鴎外の作品「大塩平八郎」に加えた批判が許せないほどに言葉汚く、卑劣なものであったという回想部分をも挿入した。

改めて『大塩平八郎』を読み返してみた。若いころに読んだ記憶はあるのだが、筋はほぼ完全に忘れているーこの辺りは古いドラマを視るのにも似ていて、考えようによっては節約につながる、というものだ。

そこで改めて確認できたのは古くて新しい問題であった。同じ問題を鴎外がずっと昔にもう考えていたことが分かったことには不思議な気持ちがした。第1回目に読んだ時になぜこの部分が記憶に残らなかったのかと、不思議な気もした。まったく、学校時代では鴎外や漱石がよく課題図書に挙げられているのだが、10代、20代のうちの読書力などはたかが知れている。つくづくとそう感じた次第だ。

以下、引用するのは最後のところだ。
個人 の 告発 は、 現に 諸国 の 法律 で 自由 行為 に なつ て ゐる。 昔 は 一歩 進ん で、 それ を 褒 むべ き 行為 に し て ゐ た。 秩序 を 維持 する 一(ひとつ) の 手段 として 奨励 し た ので ある。 中 にも 非行 の 同類 が 告発 を する のを 「返 忠」(かえり忠) と 称し て、 これ に 忠 と 云 ふ 名 を 許す に 至 つて は、 奨励 の 最 顕著 なる もの で ある。
平八郎 の 陰謀 を 告発 し た 四人 は 皆 其 門人 で、 中 で 単に 手先 に 使 はれ た 少年 二人 を 除け ば、 皆 其 与党 で ある。
(この間、平 山 助 次郎、吉見 九 郎 右衛門、吉見 英 太郎、河合 八十 次郎ら四名の密告の内容を叙述。)
評定 の 結果 として、 平山、 吉見 は 取高 の 儘 小普請 入 を 命ぜ られ、 英太郎、 八十 次郎 の 二 少年 は 賞 銀 を 賜 は つ た。 然るに 平山 は 評定 の 局 を 結ん だ 天保 九 年 閏 四月 八日 と、 それ が 発表 せら れ た 八月 二十 一日 との 中間、 六月 二十日 に 自分 の 預け られ て ゐ た 安房 勝山 の 城主 酒井 大和 守 忠 和 の 邸 で、 人間らしく 自殺 を 遂げ た。

(出所)森鴎外. 森 鴎外全集 決定版 全148作品 (インクナブラPD). innkunabula. Kindle 版.

言うまでもなく、「大塩平八郎」という作品は明治43年(1910年)の「大逆事件」に動機づけられ、江戸時代・天保8年(1837年)に大阪町奉行与力であった大塩平八郎が起こした乱を舞台にして鴎外自らの考えを述べたものである(と見なされている)。

明治43年の「大逆事件」は明治天皇暗殺未遂事件とされているが、現在では国家権力による「でっち上げ」であると見る研究者が多数派のようである。逮捕されたのは数百人にのぼり、うち起訴されたのが26人。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事他の検察当局により事件全貌のフレームアップ(=ストーリー化)が図られ、異例の速さで結審・判決となったのが特徴とされている。起訴された26名の内24名は死刑、2名が有期刑となった。処刑された中には著名なジャーナリスト幸徳秋水も含まれていた。現在では容疑の暗殺計画に少しでも同調、関与していたのは、氏名の特定されている数名のみであり、後はまったく無関係、完全な冤罪であったとされている。1960年代より「大逆事件の真実を明らかにする会」が中心となり再審請求が行われてきたものの、最高裁判所は請求棄却、免訴の判決を下している。

上の大逆事件で検察側の調書・求刑を支えたのは主として一味とされる容疑者の証言であるとされている。森鴎外が考察を加えたのはまさにこの点に関してであり、『大塩平八郎』は鴎外の考えが小説という形をとったものである。小説とはいえ、書かれている内容は考証文学とも言えるほどに綿密で、永井荷風は「科学と芸術」との融合と表現している。

◇ ◇ ◇

公益を目的とした内部告発者は保護されるべきであるという議論は現代の日本でもよく行われる。特にマスメディアにとって内部告発者は報道を支える材料提供者として大変貴重であり、新聞の販売部数拡大のためにも<匿名による密告>は実質的に奨励されるべきであるし、保護もされるべきである、と。当然、そう主張するはずである。

つい今年の春から夏にかけての事件が思い出されるだろう。前川文科省元事務次官が今治市の国家戦略特区と加計学園の内幕を暴露し「行政が歪められた」と非難し、一夜にして「時の人」になって以後、リークした文科省の役人は誰なのかという詮索が行われた。その時、マスメディア大手は一斉に「公益に基づく告発者は法的に保護されなければならない」と主張したものである。

内部告発者(=密告者)をどう観るか?どう処遇するのが正しいか?これは古い問題だが、現にいまだに問題であり続けている問題なのである。

公益に基づく内部告発は、すなわち鴎外の引用する<返り忠>であって、江戸時代の昔より、権力が秩序を維持するための倫理的ツールとして使ってきたものと本質は同じであろう。幕府は封建権力であるが、今では民主主義体制が権力そのものになっている。自分自身の権力を維持するために<公益による密告>を奨励していると考えれば筋が通る。

大逆事件をでっち上げた検察当局と加計問題をフレームアップ(したとすれば、だが)して、反政権闘争に利用したマスメディア各社は、本質的には同じ手を使ったことになるのではないか。どこに進歩があるか?

いずれが正当であるか結論が出るはずもないが、大塩平八郎一党の謀議を事前に密告した面々が事件後に優遇される中、うち一人は<人間らしく>自決を遂げた。そう述べているのは、森鴎外個人の<倫理観>というものであるのは間違いない。イエス・キリストを告発し、銀貨30枚を給されたイスカリオテのユダの自決を誰もが思い出すのではあるまいか。

途中まで関係、協力しながら、最後に密告をする行為をどう考えればよいのか?統治の論理と人間の倫理、美しさと醜さと、損得計算を理性とみるか物欲とみるか、そこには色々な要素が絡み、何が正しい考え方かという結論はそうそうすぐには得られない。敢えて言うなら、誰にせよ他人の不幸や破滅を意図的にもたらすという正にその事によって優遇を受けるとすれば、その行為は醜い。たとえ、公益に叶うとしても<醜い>と感じられるなら、同時に人間の倫理にも反している可能性が高い。とはいえ、こういう言い方もあくまでも一般論で、世知辛い浮世で人と争いながら生き抜くしか術をしらない凡人としては、<醜い>と言われても立場がないだけの話になるだろう。だからこそ、魂を救済する宗教というものが必要であったのだが。

2017年9月25日月曜日

選挙戦: スローガンではなく、具体的作戦がなければ問題外!

最近の不祥事の当事者になった国会議員たちがそれぞれ所属する政党を離党し、それでも無所属での立候補を選択し、支持者に説明会を開いたり、駅前で運動を始めているようだ。

ある候補は『子供が幼いときには手厚い児童手当、働いている間は安心して働ける社会、老いてからは安心のできる年金。これらが揃わなければ安心社会とは言えません!』、こんなアピールをしている。

反対する人間などはいないのはもちろんだ。

誰もがそうであってほしいという主張を繰り返しアピールするのは、「あなたいま幸福ですか?幸せになりたいと思いませんか?」と、誰しも本音としてもっている願望をついてくる宗教団体の布教活動と同じである。

宗教なら信じればそれで救われる。しかし、政治は宗教ではない。票を投じる有権者もバカではない。当たり前のスローガンではなく、どうすれば出来るのか?具体的作戦を語らないと票は増えないだろう。

◇ ◇ ◇ 

子育て支援、医療支援、手厚い年金を保障して安心社会を築くことは増税なしでは絶対に無理である。『増税なしで出来ます』と言う人は必ずいるし、現にいたこともある。しかし高齢化社会・低税率・高福祉を現に実現している国は一つもない。出来ないからである。『消費税率を20%まであげましょう。安心社会は夢であってはダメだ。おカネを出しましょうよ。それを財源に100年安心社会は必ずつくれるのです』、こんな構想を述べるのでなければ、手厚い社会保障は100パーセント嘘になる。ここまで有権者はわかっているのである。消費税を累進所得税率や法人税率引き上げ、環境税強化、資本課税強化に言い換えれば更に一層リベラル色が強くなる。語るべき構想を語らず、実現不可能な夢物語しか語らないので、政治に失望するのである。そういう悪循環がある。

その原因の一つとして、議員に当選することが、特に若年で議員を志す場合には議員であり続けること自体が生活設計の一部になる。こんな事実があるのかもしれない。国会議員の副業は禁止されてはいないものの、現実には兼業が相当困難である点もあるだろう。だから議員が職業になる。落選すると失業する。なので落選を極端におそれる。率直に語るべきことを語る勇気が出ない。そんな仕組みになっているのではないだろうか。

◇ ◇ ◇

そもそも国会議員は(特別)公務員であり、すべての国民に奉仕する公僕であると定義するのも問題が多い。国会では多数派が形成され、多数派の求める政策が実行されるのは当たり前である。<多数派の利益≒国民の利益>とみなして割り切るのが、任期のある国会議員による代議制民主主義の大前提ではないか、そう思うのでござんすが、誤りでありましょうや。

なにも「安心社会の建設」ばかりがスローガンたりうるわけでもない。「あなたには夢はないですか?富裕層に仲間入りしたくはないですか?もし事業の構想をお持ちなら、私たちは支援します。自由を保障します。活力のある社会、未来のある社会をつくりませんか?自由な経済圏を私たちはつくります。職業規制は廃止します。開業規制は廃止します。私たちは事業から得られる利益には課税しないことを約束します」、こんなアピールに魅力を感じる有権者も必ずいるはずである。配当課税は残すがキャピタルゲイン課税は撤廃すると言えばもっと新自由主義的になるだろう。誰もに安心は保証しないが、夢を追う人は応援する。夢を追う人を応援する人も応援する・・・。こんなアピールも十分魅力的であると(小生は)思うのだけどネエ・・・。

ビジネスには必ずターゲットがある。ターゲットを定めないマーケティングはない。自社製品は日本人全てのために提供しているのですなどと語る経営者がいれば、『あなたバカですか』と。必ずダメ出しをされる。政治もそうである。ある人達にとって嫌なことは他の人たちにとっては有難い。ある人達の希望は他の人達は邪魔をしたいものである。

政治団体(=政党)は、自党のターゲットをどう定めるか?ここが最も大事な出発点だ。ターゲットが定まれば、ターゲット外の人たちが忌避するような政策を訴えてもよいのである。ターゲットが支持すれば政党としては成功なのだ。というより、そうしなければ実行可能な政治戦略はつくれないはずだ。もちろん勝敗は数で決まる。決まったものが正しいのだ。なぜ正しいかは学者が考えるべき事柄である。これが民主主義の本質というものではござらぬか。

選挙区で選ばれた議員一人で出来ることは一人分の事である。党をつくり力をもたなければ大きな事は出来ない。「国としてこうする」と目標を決める「政党」は現代社会の政治的駆動力なのである。経済の場における「会社」と同じだ。

すべての人たちに平等公平に奉仕する会社はない。会社は顧客や支持者を喜ばせるために行動するのである。そうでござんしょう。政党だって、つまる所、おんなじでござんせんか。

代議制民主主義とは、つまるところ、私欲・支配欲をどうマネージして、社会制度にとりこみ、公益の向上へとつなげていくか。そのための工夫である。それ以外の見方がありましょうや。
◇ ◇ ◇


ところが、自民党は総合家電メーカーのような大規模政党である。「誰にでも何でもお役に立ちましょう」と言っているようなものである。トップ企業がこう出てくると、他企業は大事な側面で「尖がっている」項目を一つ設けて、あとは大体トレンドに合わせる。それが差別化のための理論的最適解でもある。実際、そうなっている ― もちろん共産党は別である。

本当の意味での対立軸がいつまでたっても与野党から出てこない。「これが国民のためになるのです」と、それしか言わないから、そもそもターゲット(=支持基盤)が真に求めていることを本当にやる気があるのか。そんな問いかけすら、するだけ無駄であるのが現在の小規模野党群である。民主党政権時には、あろうことか自民党の伝統的支持基盤を吸収しようとしているように見えたこともあった。『要するに自民党にとって変わりたいだけか』。小生はそう思ったものでござる。

与党と野党のコア・コンピタンスがぶつかりあう、「外面美人戦略」を放棄して、選択と集中に徹底して、支持基盤の本音を剥き出しにした衝突がいつ始まるのだろう?

現在の日本社会には確かに社会的な断層が形成されつつある。だから、やる気があれば、自民党への真っ向勝負もできるはずだ。自民党支持層は誰にでもわかっているのだから。  ー いや、無理かネエ、大体そもそも、マスメディア企業そのものからして、日本のエスタブリッシュメントだ。組織が固まっている共産党ならいざ知らず、自民党に真っ向から勝負するような(自民党になり変わるだけならば可)真のリベラルなど、巨大メディア大手につぶされるのではないか、と。それでもネット上で・・いや、それもダメか、それでもしかし、公職選挙法の穴がどこかにあるのではないかネエ、と。そんな風に思われるのである。

一体いつになったら日本の政治は面白くなるのだろう?

ま、ともかくも安倍政権の右翼的感覚には頻繁に拒否感情を感じるが、それでも自らのターゲットを喜ばせることを目標とし、と同時にターゲット外の人たちの怒りとの差し引き計算を常に忘れないところは、政治家としてあるべき模範である。そう思っているのは事実だ。

2017年9月23日土曜日

衆議院解散の大義名分はあるのかって?

にわかな解散風で本当に政治というのは一寸先は闇であると思いを新たにする。

日経にこんな解説がされている。

 ただ調査は野党の候補者一本化を前提としない数字だ。野党共闘が奏功すれば自民党の議席はさらに減る。逆に野党がしくじれば自民大勝の芽もないわけではない。「危険な賭けだ」と漏らす首相側近もいる。消費増税の使途見直しや憲法改正、北朝鮮への対応などが争点になる気配だ。

(出所)日本経済新聞、2017年9月23日

ただこれだけ大義名分を並べても反政権派マスメディアは解散の大義名分として説得力にかけるというだろう。

現政権は率直に語ってはどうだろうか。

臨時国会でも野党は再び森友事件、加計学園問題を追求する構えだと伝えられている。しかし、北朝鮮をとりまく国際環境は年末にかけて更に一層緊迫の度を増すという外交当局の予想である。

アメリカの方針、現行憲法の制約の中でどこまで日本が行動できるか等々、困難な政治が予想される。そんな中、予算委員会その他で(小生の目にはどうでもよいとしか思われないが)国会がテレビ中継される中、延々と森友・加計学園問題で首相以下の閣僚が出席を求められる事態は、日本の「国家」というものを考えれば、やはり大きな問題で、大げさにいえば戦後日本式・議会制民主主義の負の側面であると、思ってしまうのだ、な。

行政府の問題は会計検査院や検察庁など非政治的・中立的機関が設けられているのであるから、公的機関による検証を国会も信頼し、議会が本来果たすべき仕事にとりくむべきだろう。

実際、民進党は蓮舫代表が春先からの与党追求、内閣の支持率低下にもかかわらず辞任を余儀なくされ、離党者が相次ぎ党自体が崩壊寸前の危機に陥り、前原新代表への期待も薄いと伝えられている。戦術が成功しているならこうはなっていないはずだ。マスメディアが反政権闘争を展開し、内閣支持率を低下させても、それでもなお新しい政治への期待はさっぱり高まってはいないのだ。野党のとった戦術が広く国民に支持されるどころか、ある面では辟易とした感情を形成してきたという歴然たる事実がここにある。

春先以降のこれら全ての情勢を含め、<内閣の信任を問う>解散と選挙であると率直に語れば、それで十分ではないだろうか。

・・・こう述べると、『結局は、森友事件・加計学園問題の国会審議から逃げるのをよしとするのか』という指摘になってくるだろう。こういう見方は決して否定できないのだな。つまるところ、モリカケ事件を<些事を問題視した次元の低い政争>と見るか、それとも<現政権の腐敗>をそこに見て国会が行政府を問い詰めるべき大問題と解釈するのか。この二択である。こんな結論になるのではないか。

小生は(どちらかといえば)前者に近く、なので現政権の右翼的思想には拒絶感をときに感じるものの、同程度の辟易さは春先以来の民進党にも感じているので、この辺りで内閣の信任投票を国民に提案するやり方もあってよいと思っている。

信任が確認されたという状況になれば、集団的自衛権を認めた現・安保法制の運用にも自信が得られ、マスメディア攻勢や違憲訴訟の殺到にもメゲず堂々と反撃する、そんな覚悟もできる。こんな風な期待も(ひょっとすると)あるのかもしれない。もちろん「とらぬ狸の皮算用」という可能性もあるわけで、自民党の予想外の敗北、首相退陣という信じられない展開も絶対にないわけではない。「一寸先は闇」なのである。

というわけであり、激しく変化する時代、危機の時代には、前例のない解散の仕方があってもそれこそが歴史の進展であると思うわけで、前例が少なく好ましくないと言うそれ自体を問題視して学問的論議を重ねても神学論争に落ちていくだけである。社会を対象にする学問は現実の中から新たな概念を抽き出し理論を発展させ自己革新していくしか進む道はない ー 学界のバックアップがないことは現政権のウィークポイントには違いないが。

2017年9月20日水曜日

祖父のエピソード: これは奇縁だったかも

小生の母方の祖父は名を石丸友二郎という。裁判官をやって人生を送った人である。だが、色々と失敗をした人でもあったようだ。

たとえば祖父が旧制松山中学(小生の親は父方・母方とも四国松山地生えの家に生まれた)を卒業するときのことだ。その頃、成績第一位は熊本の旧制五高に推薦入学できたらしい。ところが祖父は2位であったようだ。2位は五高ではなく、岡山にあった旧制六高への推薦が可能だったと言う。小生なら大人しく六高に進んだと思うのだが、祖父は実力に自信があったのだろう、『試験を受けて五高に行きますから』と言い放ったそうなのだ。ところが受験してみると、祖父の言い分によれば得意の数学で勝負をするつもりだったところ、たまたまその年の問題は多量の計算を要する問題が出題されたらしい。小生も単純で面倒なばかりな計算は嫌いであったが、祖父も計算は苦手だったらしい。多分、計算ミスを途中でやって、キリの良い答えが出なかったのだろうか、時間が気になり焦ってしまい、あえなく不合格になった。さすがに見栄を切った手前恥ずかしく、表にでることもいやになり、鬱症になった祖父をみて、父親(=曽祖父)は海辺にある家の一室を借り、一夏のあいだそこに滞在させたと言う。いまでいう転地療養である。それで元気を取り戻した祖父は秋から受験勉強を再開する気持ちになったのだが、これが運勢というのか翌年の春に旧制松山高校が開設されることに決まった。それで、祖父は熊本にも岡山にも行かず、地元の松山高校にそのまま進むことになった。

そんなことで岡山の旧制六高に学ぶ機会はついになかったのだが、もし六高に進んでいれば有名な新島八重の娘婿である広津友信がまだ英語教師か生徒監として在職していたはずである。広津は六高に明治34年(1901年)から大正9年(1920年)まで勤務していた。もしそうなっていたら、祖父のことだから広津から聴いた新島八重や戊辰戦争前後の色々なエピソードを小生にも話してくれたに違いない。

石丸友二郎。妻は同郷の作道家から嫁した米代である。長女の名は静江。7歳下の弟が元一である。静江、即ち小生の母である。静江は夫・芳男が53歳であるときに死別し、その後11年を経た後61歳で他界した。元一。妻は和子である。二人とも松山市で暮らし健在である。

こんなことを調べる気になったのは、会津若松の特産である「ニシンの山椒漬け」が小生の好物なのだが、中々地元では手に入らず残念であったところ、ふるさと納税で寄付すれば送ってもらえるのではないかと思いつき、ネットを検索してみると、意外や会津若松市ではなく隣の会津坂下町でお礼の品の一品としてニシン山椒漬けがあるのを見つけた。ただ、会津坂下町には行ったことがなく馴染みがないので、調べてみると出身者の中に新島八重がいる。NHKの大河ドラマで八重は有名になったが、生まれた土地は若松ではなく、坂下であったのかと、再び八重のことを調べ直しているうちに、上の娘婿・広津友信に行き着いたのだ。

広津友信。福岡県出身で同志社英学校に学び創立者・新島襄の信頼厚かった人物である。新島の死後に米国・ハーバード大学に留学し帰国後は同志社の校長代理を勤めた。しかし明治34年に或る校内トラブルに巻き込まれ、同志社を辞任し、同年秋岡山の六高に移籍した。妻は新島八重の養女・初である。初は元・米沢藩士である甘粕三郎に育てられたが、実の親は父が元・米沢藩士甘粕鷲郎、母が元・会津藩士手代木勝任の娘・中枝である。両親が早く亡くなったため叔父・甘粕三郎が初を引き取って育てた。初の祖父・手代木勝任は会津戦争で敗勢が濃くなる中、秋月悌次郎とともに米沢まで陰行し降伏の仲介を依頼した。同藩の協力で会津藩は官軍・板垣退助らに降伏を申し入れることになり戊辰戦争は大きな山を越した。

・・・ついでにいうと、上にあげた祖父は東大には順調に進んだが、その後司法試験(当時の高文試験)を受験するときに遅刻するという大失敗をまた犯してしまった。ただ、この時はさすがに鬱症にはならず、小田原の中学校で臨時教員を一年勤めてしのぎ、翌年度に無事合格した。なので、祖父は10代においては駿馬であった(という)のだが、職業人生を始める時点においては既に人に遅れをとっており、裁判官とはいっても地味な支部勤めが多かったような気がするのは、若い頃のこんな失敗が尾を引いたのかもしれない、と。今になってから思ったりしているのだ。

2017年9月18日月曜日

暴言議員・豊田女史のインタビューで思う

暴言暴行で世を騒がせ自民党を離党した豊田真由子議員に民放のニュースキャスターMがインタビューしたというので注目されている。

今回は秘書への暴言暴行とはうって変わり、スッカリと萎たれた反省ぶりで、これが録音された人物かと思われるほど、声調はまったく別人である。

インタビューの内容自体については多くの意見が既にネット上にアップされている。改めて付け加えなくともいい。

ただ思わず考えてしまったことがあった。

◇ ◇ ◇

豊田議員は、繰り返すまでもなくエリートである。有名女子高校から東大法学部に進み、中央官庁の官僚となってから、米国・ハーバード大学に留学するなどを経て、衆議院議員に当選した。極めて聡明で、昔流の表現を使えば「目から鼻に抜ける」ような大秀才、いやいや超才媛であったからこそ可能だったキャリアである。そんな人だからこそ、暴行暴言が世間の一大テーマになったわけでもある。

悪い意味で『命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること』という孔子の言が当てはまってしまったわけだ。

しかし、よく考えてみると、オリンピックの金メダリストが不祥事を起こすのだから、勉強エリートがトラブルを起こしたくらいで驚くことはないのだ。理屈はそうでござんしょう。

T女史の場合、「頭がいい」というその点こそがどうにも好感を持てない大きな短所として働き始めている。これが厳しい現実として指摘できる。

◇ ◇ ◇

少し敷衍しよう。

下の愚息に何度も言っているのだが、人の長所は即ちその人の欠点であり、欠点は即ち長所である。たとえば<大胆>な人は同時に<鈍感>な人物でもあり、より大胆であればあるほど一層鈍感にもなりうる。鈍感であるという欠点を表面化させないためには繊細である必要があり、そうなるべく努力をすれば本来の長所である大胆さが消えてしまうのだな。理想は「大胆にして細心」だが、言うは易しだ。他の性格もすべて同じである。

聡明な人は変化や違いに敏く、状況変化に即応してとるべき対応が直ちに分かるものである。頭の回転が生まれつき速いのだ。かつそんな人は記憶力が抜群に良い。それが普通の人間集団におけるトラブルの中では最大の欠点となりうる。前にも投稿したことがあるのだが、小生の田舎でいうところの「キョロマ」になることが多いのだ、な。

大成功するための必要条件として大阪では三点が強調されている。誰でも知っているそれは<運・鈍・根>である。頭のよい人物は鈍な人物を演技できないものである。上手に演技しようとする努力そのものが、鈍な人物ではなく賢い人間である事実を浮かび上がらせてしまう。

故に、聡明な人は概して大成功には至らない。これが昔からの経験則のようなのだ ー 小生の亡くなった父もその轍を踏んでいたように(今にして)思ったりする。

江戸幕府の名老中であった松平伊豆守信綱は「知恵伊豆」と呼ばれるほどの秀才であったが、人望薄く、「才あれど、徳なし」と評されていたそうだ。小姓をつとめて以来ずっと仕えた将軍・家光が薨去したときに殉死はせず(4代家綱を託された故であるが)、そのため「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と庶民からは揶揄されている。

◇ ◇ ◇

非常に頭のいい人物というのは、使われる人物であってこそ輝くことが多い。尊敬や人望、器の大きさとは無縁になりがちだ。「頭の回転が速い」という素質単独ではせいぜい歯車一枚が担当できる範囲のことしかできない理屈だ。大成功に至るにはもっと必要な才質がある。

知恵伊豆や一休さんのように「頭の回転が速い」、「頭がいい」ということが真に求められる仕事とは一体なんだろうか、よく考えると分からないのだな。小生の身近には研究者が多数いるが、研究者としての成功は「頭より性格」、これが経験則だ。やはり、どう考えても人の手足になって指示された仕事を正確かつ速やかに進めるときではないか。それとも当意即妙が求められる芸能人だろうか・・・。頭の回転が速いことは、足が速いのと似ていて、あくまで個人の能力なのである。走るのは一人で走る競技もあるが、仕事は一人では中々できない。頭の良し悪しはその人個人の才能なのだ。そういえば東大生の芸能人化現象がさいきん顕著に進んでおるなあ・・・。ま、これは別の話題。

今日はどうも結論らしい結論はありそうもない。が、上で「考えてしまった」と書いたので一応全部書きとめておく。

一生懸命に受験勉強をすれば普通の人でも解答可能であるような特定のパターンの問題を<制限時間内>で解くような筆記試験は、頭の回転の速さを測定しているわけであり、まったく人材選別に無益とまでは言わないが、問題解決能力を問うものではなく、選別手段として高い精度をもっているとは言えない。

筆記試験では<真に解答困難>な問題を出題し、体力の限界を問うほどの長時間を与えて解答させる方式の方が選抜手段としては有効だと思う。評価は主観的にならざるを得ない。だからこそ、評価を担当する側にこそ一流の人間を配置するべきだ。中国伝統の科挙はその方式であった ー それでも出題パターンは無限にはないので受験勉強の巧拙で合否が決まるところがあったと何かで読んだことがある。

厳しい勝負の世界で生きているプロスポーツでは、練習を重ねいま身につけているスキルより、「基礎」と「伸びしろ」をみて選手を選び育てているはず。これはどの世界にも当てはまることだ。

こんなことを改めて考えてしまった。ま、月並みなことである、な。

2017年9月16日土曜日

ずっと昔の「文春砲」?

夏に読み返すなら永井荷風の『濹東綺譚』が最良だと思っている。この夏もまた読んだのだが、面白い下りがあったのでメモしておく。

主人公の大江(≒荷風自身)が遊興の巷・玉の井をなぜ歩き回るようになったのかを語る場面である。

此に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。・・・十余年前銀座の表通に頻りにカフェーが出来始めた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙ってわたくしを筆誅した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、「世に生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。

と、こんな下りがあるのに改めて気がついた(岩波書店『荷風全集』第9巻(昭和39年初版)、134頁)。

『濹東綺譚』が書かれたのは昭和11年(1936年)のことである。「う~む、81年も前から文藝春秋という会社はこんな「筆誅」なるものをやっていたんだネエ」と、改めてというか、つくづくと、会社の根性なるものに感嘆した次第。

とはいうものの、永井荷風はことさらに『文藝春秋』のみに辟易していたわけではない。

たとえばこんな下りもある。

文学雑誌『新潮』は森先生の小説に対していつも卑陋なる言辞を弄して悪罵するを常としていた。殊に先生が『大塩平八郎』の一編を中央公論に寄稿せられた時『新潮』記者のなしたる暴言の如きは全く許すべからざるものであった(岩波書店『荷風全集』第15巻(昭和38年初版)、232頁)。
荷風がいう「先生」というのは森鴎外のことである。上は大正11年(1922年)8月発行『明星』に掲載された『森先生の事」がオリジナルである。書かれたのは実に95年も前のことだ。

現在、「週刊文春」と「週刊新潮」が何かと言っては人の秘密を暴露しては人を非難し、販売部数を伸ばす競争をやっているが、「この性向、昔から何も変わっていなかったんだネエ」とつくづくと感嘆した。

同じ路線を100年近くも走り続けるのは、会社であるとしても、ある意味で偉大なことであろう。



2017年9月14日木曜日

北朝鮮問題: 間の抜けた記事、間の抜けた予測

新聞記事を書いている記者がどの程度まで書いている事柄について勉強しているかというと、疑問に感じられることが多いと。こんな指摘は以前からある。次の下りはどうなのだろうか。

 (前略) また、日米の運用が一体化すればするほど、自衛隊が米軍と同じ集団とみなされる恐れがある。もし北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、給油などをする自衛隊にも矛先が向きかねない。政府がどこまで情報を開示し、正確な実態を伝えるかも議論が必要になる。


北朝鮮が仮に日本海で米艦を攻撃すれば、直ちに安保法制上の「存立危機事態」及び「武力攻撃予測事態」が宣言され、集団的自衛権が発動されることは確実である。

その集団的自衛権について違憲訴訟が殺到することも予想される。

しかし、現に北朝鮮が米艦を軍事攻撃しつつある事態になれば、詳細を述べるまでもなく、集団的自衛権に基づき自衛を進める内閣を支持する世論は高まるであろう。違憲訴訟の結論がでる以前に、憲法改正が発議され、国民投票に付されることもまず確実ではないかと思う。国民投票では賛成多数となるであろう。

なので『北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、・・・自衛隊にも矛先が向きかねず』というのはかなり間の抜けた話しで、そんな<有事>においては自衛隊というより日本の国土が当然の理屈として北朝鮮の攻撃対象になる。これはもう当たり前のロジックだと思うのだが、「そうならないように出来ないか」と願うなら、上のような暢気な予測を述べるより、戦争を避ける戦略的外交の余地について特集記事を企画したり、世論を形成する努力を(もっと)するべきではないだろうか。

森友騒動や加計学園騒動ではそれができたのである。

2017年9月13日水曜日

主観におぼれては良い分析も、良い提案も、良いレポートも無理である

商売柄、レポートを添削したり、評価することは多い。

明確に言えることだが、優秀なレポートは読んでいて楽しい。書いている本人の知的な活動がイキイキと伝わってくるものだ。

よく起承転結を大事にせよとか、序論・本論・結論をハッキリ意識せよとか、良いレポートを書く鉄則について話したりするのだが、最も大事なことはロジックを通せという点に尽きる。なぜなら、感性や価値観、理念、主張は人さまざま、文字通り「人は色々」だからだ。感性や価値観はバラバラでも、論理は万人共通である。だから明確な論理で整理されたレポートを読むと、思わず『この人はホント頭がいいねえ』と感心するのだなーもちろん、どんな論理にも前提はあるので、結論に常に同意するとは限らない。これまた当たり前。

◇ ◇ ◇

さて、と。ある報道記事(というよりブログ記事)に次のような下りがあった。
今、野党は何を目指すべきか。 
「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから、すでに「失敗した」と見られている「民進党」という器にこだわらず、国政の転換のための野党勢力の大きな結集を実現し、一対一の構図を作り出すべき、というのは、前回の論考で書いた。 
で、こういう書き方をすると、「理念なき数合せでは駄目」みたいな評論が必ず出てくる。それはその通りだが、しかし私が見ている限り、バラバラで遠心力ばかりが働いているように見える野党勢力だけれども、当面の政権政策となりうる政策の一致は、本当のところ、十分に可能であるように思える。
(出所)BLOGOS、2017年9月13日

ご本人はレッキとした政治家だ。だから自派の立場を伝えようとする意欲はわかるのだが、わかるのは残念ながら『何か、強い思いがあるんだネエ』というところまでだ。

小生、最後まで読むことが出来なかった ー 教師としての立場上、こんなことをしてはいけないものの、最初の数行を読んだ段階で関心が萎えてしまうレポートもある。そんなタイプのレポート文と同じであった。

◇ ◇ ◇

「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから・・・というところでもうダメであった。

学生のレポートであれば「違うでしょ」と言うだろう。

政治というのは「お山の大将」になる陣取りゲームではない。現代は戦国時代ではないのだ。当人たちは勝負の意識が強いのだろうが、それは「当事者の主観」でしかない。国民とは共有されていない。

民間企業ならシェア第1位になりトップ企業として君臨するのが、経営目標といえば目標だ。しかし、ただトップ企業を倒すことを第一目標にしてはいけない。

トップ企業は、多くの顧客から評価されているからこそ、現時点のトップでありえている。この事実は大変厳粛である。それはトップ企業が有している価値であると同時に、そのトップ企業は顧客を含む社会全体にとってのリソースでもあるのだ。ただ「トップを倒したい」なら、虚実とりまぜた「ネガティブ・キャンペーン」を徹底してやればよいのである。トップ企業はボディブローのようなダメージを被るだろう。しかし、それは商慣習としてタブーになっている。その意味合いは政治家や政党にとっても非常に重要ではないだろうか。

「トヨタにとって変わることはトヨタ以外の国内自動車メーカー共通の大目標だと思うんですよね」という御仁が、たとえばゴーン社長の後継者になるとすれば(ありえないことだが)、『こいつバカか』と思うだろう。「よい自動車」を提案して新たな時代を切り開けば、結果としてトップになれるのだ。

◇ ◇ ◇

違った政党は、異なった提案をしている(はずである)。提案が異なるのは基本理念が異なり、目標が異なるからだ。そもそも「政党」っていうのはそういうモノでござんしょう。民進党と日本共産党は基本理念が異なる(のは明らかだ、民進党の理念は少しアイマイだが)。理念が異なり、目標が異なるなら、協力できるロジックはない。

であるのに、「大目標」とはよく言ったものである。薩摩と長州は「幕府を倒す」という目標で一致したわけではない。攘夷が困難であることにいち早く気づき、幕藩体制という現状が国の独立を危うくしているという認識を共有し、「倒幕」が必要であると認識し、「強い日本を建設する」という目標で一致したから、薩長反目の経緯を乗り越えて協力できたのだ。倒幕は「大目標」ではなく通過点であった。何より「行き先」が大事なのだ。幕府を倒すという大目標で協力したわけではない。それでも具体的政策レベルで違いが表面化したから西南戦争が起こってしまった。目的が違うなら、やっている先から内紛が起きるだけである。

小生の若い頃に「革命はまだ起こらねえのか!」と叫ぶ御仁がいたが、ただただリニューアルしたいだけで壁紙を剥がし、家具を撤去したら、漂流するだけでしょう。

夢をまず語るべきである。夢があったから志があり、「志士」と呼ばれたのだ。であるのにネエ、上のブログ記事はトテモじゃないが読めたもんじゃございませんでした。

◇ ◇ ◇

レポートの序論では、問題を提起し、その問題について全ての人が認めるに違いない合意事項や大前提を示す。そこで本論に入り、ロジカルに問題の解決策を浮かび上がらせていく。これがレポートの王道である。

奇をてらったレポートは「本心はどこにあるのか」とアラヌ腹を探られるだけである。政治家も奇をてらわず、王道でいくべきだ。勝つこと自体を目的とする詭道(鬼道?)は日本の政治の場において共有されている社会資源を損壊するだけである。

2017年9月10日日曜日

メモ: 「文春砲」についてどう思うか

「文春砲」という単語は小生が東京で小役人をやっていた時分にはなかった。ごくごく最近年になってから使われ始めた言葉だ。

とはいえ、こういう「社会的制裁」、いやいや憲法で「私刑」は禁止されている、そうではなくて「報道サービス」は自分たちが暮らしている社会の自浄機能を維持する上で必要である。これまた事実であるのだな。

人間ドックでこんな会話をしたことがある。
コレステロールが上がっていますね。チョコレートはお好き?そう、それは止めたほうがいいと思います。チーズは?
お節介な話だが、本当に悪い所があったときに、「悪い所がある」と正確に指摘してくれるためには厳しい判定基準が必要なのである。統計学では「第1種の誤り」と「第2種の誤り」のバランスをどうとるかという問題になる。前者はヌレギヌ。つまり「悪くはないのに悪い」と判定してしまう、後者は見逃シ。即ち「悪いのにそれに気がつかず放置してしまうことから問題が拡大する失敗」をさす。人間ドックに限らず、すべての検査、すべての判断行為には判断ミスの可能性がまじるものだ。

甘い捜査をすればヌレギヌをきせる回数は減るが、真犯人を見逃す誤りが増える。厳しい操作をすれば、容疑者は落とせるだろうが、冤罪をうむ可能性が高まる。一定の情報で判定するなら、二つの誤りはトレードオフである。

◇ ◇ ◇

「文春砲」のターゲットになった人物は、記事の内容がすべて事実なのか、一部分は事実なのか、まったくの虚偽なのか、その度合いや真相とはかかわりなく職業上の地位を(たとえ一時的にもせよ)失うという憂き目にあうのが現実だ。

社会にとって有用な人材が週刊文春編集部の私的な判定で葬られてしまうのは確かに社会的損失である。が、本当に悪辣で警察による捜査では立証し難い人物であっても「黒い噂」が週刊文春に掲載されれば、その時点で当該人物は大打撃を被るだろう。

理想はピンポイント砲撃であるが、そこには狙うターゲットはいないかもしれず、砲撃すればやはり無辜の市民も巻き添えをくう、無実の御仁もドカ〜ン1発で哀れなり、社会的生命は花と散る・・・犠牲をゼロにするのは実に難しいものである。同じ理屈じゃな。

◇ ◇ ◇

確かに「文春砲」のような存在は社会にとって必要なのである。が、犠牲者はやはりゼロではない。これまた払うべきコストということだ。悲しいけどねえ・・・。

今回の騒動は山尾議員の身の不運かもしれない。仮にそうだとすれば、それは日本社会が自浄機能を維持するために必要な犠牲ということになる。
お上が何もかもやるわけにゃあいけませんからネエ、火消しもそうなんですけどネ、この辺はもう町方の考えでやってもらってるんでござんすヨ。こりゃあいけねえヤって皆が思うなら消えていくでしょうし、何かのお役に立つってんなら使う人も出てきましょう。まあ、見ててごらんなせえ、落ち着くところに自然にネ、落ち着くってことじゃあござんせんか?
そういうことか。大火から江戸を救うには、燃えてない家を壊しても「致シ方ナシ」。不純異性交遊の蔓延をくい止め、世間の規律を保つには犠牲も時には「ヤムヲ得ヌ」。かなり危ないことを二人がやっていたことは確かだし、そうかもネエ・・・。

2017年9月9日土曜日

メモ: 憲法改正に関連するベーシックな論理

数日前、すっかり秋めいた北海道の晴れた昼下がり、部屋でゴロゴロしていると、不図こんなロジックもあるなあ、と気が付いた。

明治憲法の改正手続きに則して日本国憲法は公布・施行された。これが(一応手続き的にも)公式の見解になっている。が、そんなことは可能かという問題が学会にはあると耳にしている。

ここで一つの問題:
日本国憲法の改正手続きに則して明治憲法に戻すことは論理的に可能か。

結論:
論理的には、可能だ。

◆ ◆ ◆

なぜそうなるかを以下にメモしておく。

一見すると、国民主権を原理とする日本国憲法から天皇主権を基礎とする明治憲法が導かれるはずがないと思われる。


簡単のため次のように記号を定める。「明治憲法を是とする」を命題A、「日本国憲法を是とする」を命題Bとする。現在の公式解釈は(論理としては)「AならばB」である。

仮に日本国憲法から明治憲法は導かれえないのだすれば、その命題は「BならばAでない」になる。ところが、この対偶をとれば「AであればBでない」となる。これを言葉になおすと「明治憲法を是とすれば日本国憲法は是にならない」となる。しかし、現に明治憲法から日本国憲法が導かれたと公式には解釈されている。故に、上の命題は真ではない。ということは、その対偶もまた真ではないことになる。即ち、元の「日本国憲法から明治憲法は導かれえない」という命題は偽である。故に、「日本国憲法から明治憲法は導かれうる」。

要するに、明治憲法の改正手続きから日本国憲法が制定されたのだと考えれば、日本国憲法を改正して明治憲法に戻すことができる。もちろん、国民投票でどうなるか、それは分からない。しかし、そんな改正が行われたとしても、決して不合理ではないわけだ。

◆ ◆ ◆


上の議論は東大法学部の正統とされる「八月革命説」とは異なる。この学説に立てば、明治憲法から日本国憲法は得られない。昭和20年8月に(概念上の)革命が起きたと考える。もしそう考えるなら、日本国憲法から明治憲法は出てこない。実態としてはこちらが正しいのだろう。しかし、仮にそう考えるならば、今度は明治憲法を廃止して新たに日本国憲法を制定したのは誰か、という問題に解答する必要が出てくる。

この問題は、歴史的事実をどう認識するかという問題レベルを超えるものらしく、憲法学界でも一致した答えが未だにないようだ。このこと自体、一種、驚きでもある。が、まあ、それはそうかもしれない。まさか「アメリカ人が制定した」とは法理からして言えまい。なぜならアメリカ人には日本の憲法を制定する権利がないからだ。それとも連合軍が表明した意志として憲法改正が含まれていた。占領中であれば可能であった。実態はこれに近かったのかもしれない。が、そうであれば、日本国憲法は「民定憲法」とは言えないであろう。国民が制定したわけではないなら「国民主権」であるとも言えないかもしれない。これよりは明治憲法の改正手続きに則して日本国民が日本国憲法を定めたと解釈する方が収まりがよいかもしれない。どうもこれまたハッキリした統一見解がないようだ。

「戦後日本」の古くて、最も重要な出発点が、現・統治構造の下で今なお不明確である。ここは認めざるを得ないのではないだろうか。だから憲法の正当性に疑いをはさむ集団が存在する。ここから様々な問題が対処されないまま問題としてそこに現存するわけだ。


2017年9月8日金曜日

スーパー受難の時代: 「欠品1回」のこわさ

最近のヘルシーブームに乗っかって我が家も東洋ライス製「金芽ロウカット玄米(無洗米)」の優良顧客になった。

この商品、玄米の表層をのみカットしているので通常の玄米と栄養素は変わらないまま、炊き方は白米と同じである。かつ、食味も白米とほとんど同じで、特に茶漬け、チャーハンなどにすると白米よりも美味い(と小生宅では話している)。言うまでもなく、玄米は万能食と言われており、玄米では摂取できない栄養素をあげたほうがよいくらいだ。

最初、この食品を知ったのはCOOPのトドックである。ところがトドックは便利なものの配達は週一回で毎日食べている食品がなくなったときは不便。先日、いきつけのイオンで探してみるとあるではないか。『いま評判だからサ、置いているのは当然だよ』とカミさんと話したものだ。

本日は、隣町S市にあるイオンモールに買い物に出かけた。ついでに残り少なくなったロウカット玄米を買って帰ろうと思った。が、ないのだな。『扱ってないみたいだよ』、『でも近くのイオンにはあったんだから・・』、『売り切れかなあ?』、『もし売り切れなら、札があってそこが空になっているはずだしネエ』、『それもそうだなあ、ある期間だけ置いたりしているのか?』。

結局、今日は断念して帰宅したが、戻ってからアマゾンを検索すると、2Kg2袋が2480円で販売中だ。プライム会員なら通常配送料無料。『これは買いだヨネ!』、『そうだね』となる。

購入チャネルはこうして古い購入先から新しい購入先へとシフトする。新しい購入習慣が形成され、やがて定着する・・・。

◇ ◇ ◇

注文してから思った。これは確かに小売業界は危機だわ、と。

アメリカは、いまいかにしてAmazonとつきあっていくかが生き残るための大問題になっているようだ。ウォルマートは徹底的に戦うらしいが、その帰趨は予断を許さない。Amazon Echoの日本語版が発売されれば、日本国内の小売業界も一気に激変するに違いない ー まだ日本語対応品発売の予定はないそうだが。

スーパー、というか大規模小売店は売れ筋を大量販売・大量調達することで価格支配力を維持し、それによって利益を出してきた。しかし、品揃えを売れ筋に集中すれば、マージナルな商品を外すことがある。もともと消費者は、色々な多種多様なものを本来欲しているものである。そんな心理でいながらスーパーに並ぶ標準品をみると「これでイイか」と思って買ってきた。消費者がスーパーに合わせてきたのだ。

ところがAmazonを検索するとズバリ欲しいものがいつでも買える。住んでいる場所は問わない。「欠品1回」が「わざわざ行っても置いてないかもしれない」という憶測につながる。「じゃあ、いまAmazonに注文するか」となる。

今後も既存の大規模小売店は顧客の流出、販売チャンスの喪失に悩むことだろう。有効な対抗策はあまりない。売り方・買い方が激変しつつあるのだ。今後、日本人の買い物の基本スタイルは一変するだろう。その変化はスーパーなる業態が誕生した時を超える激しい変化になるに違いない。手にとって買いたいものは確かにある。が、それを買うスペースが既存のスーパーである可能性は低い。

面白い時代、と言うより怖い時代になった。そう思った今日一日である。

2017年9月7日木曜日

仕事のモラル、男女のモラルとも前近代的ですぜ

民進党の山尾議員が同党・幹事長につく見込みであると報道されたところ、結局は別の人になり、新代表早々の座礁とかアレコレ言われ、これいかにと思っているとやはり出てきました・・・W不倫。今度はにわかに離党か、議員辞職か、そんな話になってきた。このパターン、最近年になって非常に多いのだな。

フランスでは前のオ大統領が事実婚だったかどうか忘れたが「現夫人」と離婚して、「新夫人」を迎え入れたことがある。イタリアのベ首相は、不倫も汚職(疑惑?)もくぐりぬけてきた猛者だが、イタリアの首相該当職である閣僚評議会議長を合計9年間も勤めてきたときく。

私は彼女を愛している。彼女も私を愛している。妻には申し訳ないが、愛のない結婚生活をこれからも続けることが社会人の責任だと君たちは言うのか?妻も私との結婚生活にピリオドを打つことを受け入れてくれた。もちろん、生涯を通して妻への感謝の気持ちは変わらない。生活の保障もするつもりだ。愛は移ろい行くが、感謝の気持ちに変わりはない。

こんなキザなことを言ったかどうかは分からないが、公人・政治家とはつまり職業人、男女の愛とは私生活。この区別をどの程度の厳しさで社会が設け、一人一人が意識するかは、その国ごとの文明の度合い、というか価値観によるのだろう。

ただし、日本の場合、これ以前の問題があるかも。

小生が中学生だった頃に使われていた「不純異性交遊」という非日常的単語。最初は言葉の意味が分からなかった。男子と女子は言葉を交わしてはいけないのかとさえ思ったものだ。そうではないのだが。議会は上意下達で仕事をする場所ではなく、議員一人一人を大事にしてくれるという意味では、学校社会に似ているところがあるのかも。

まあ、今となっては<お笑い用語>だと思っていたのが、最近マスコミのゴシップを聞くにつけ、よく思い出してしまうのが「不純異性交遊」という言葉だ。「不倫」というのは渡辺淳一的な一途の愛を言うのじゃないの?ちょっと事実認識において、ピンと来ないことが多いのだな。仕事仲間なら二人で食事をすることもあるし、ホテルでおしゃべりをしたくなることもあるだろう。男同士、女同士、男女二人であっても、だ。それが疑わしいってんなら、女性が輝く社会などと大層なことを話すんじゃない。そう言いたくなりますぜ。

◇ ◇ ◇

それにしても、仕事の場に自然に醸し出されてくる男女の間の信頼感と、この信頼感がそのまま私生活を侵略しているのではないかと疑う周囲の視線。

疑うのはモラルに立脚して疑うわけだが、社会の実態が変わればモラルも進化した方がよい。そう思うのは小生だけだろうか。

その昔、ナポレオン戦争の頃、制海権を有していた英国は敵国オランダの国旗が日本の出島にまだ翻っていることを知った。そこで英海軍のフリゲート艦・フェートン号が長崎港に侵入しオランダ商館員を拉致した。幕府・長崎奉行所は大騒ぎになり、フェートン号を焼き討ちしようとの計画を進めたのだが、同艦は商館員を解放し、そのまま姿を消した。長崎奉行・松平康英は『世を騒がせしこと、誠に申し訳ござらぬ』と遺書をしたため、腹を切った。

文化5年8月15日(1808年10月4日)のことである。

フェートン号事件は、長崎奉行とはまったく関係のないことで、責任はゼロである。被害もない。にも関わらず、切腹をして幕府に(世間に)詫びる決意をした。それがまた悲劇と受け取られる風でもなく、その後の日本の異国船打払令へと日本の歴史は進んでいった。その意味では幕末の攘夷運動の契機をなした事件である。

まあ、いいんだけどね、という奴でもある。

この歴史、小生はよく「なんと言うことか」と感じていて、<世間と自己>をどう考えるかと言う日本的モラルの象徴のようにも思われてきたのだ。世間が個人に押し付けるこのモラルが、実は陰に陽に日本人を不幸にしている。その第一の原因である。そう思うことが多いのだ、な。

「モラル」とは世間が決めるものではない。もし世間が正邪善悪を決めるなら、『己信じて直ければ敵百万人ありとても我行かん(日蓮)』という名文句が出てくるはずがない。

「モラル」、いや「世間」と呼ぼう、ここにも進化が必要だと感じることは多い。仕事にも、家族にも、男女にも、だ。

2017年9月4日月曜日

多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け

北朝鮮は既に核保有国である。そう認識しなければ何も進まないだろう。

覇権闘争はゲーム論の枠組みを当てはめればタカ・ハトゲームである。通常、タカ・ハトゲームでは、一方がタカ(=リーダー)になり、他方がハト(=フォロワー)になる状態がナッシュ均衡である。タカ対タカ、つまり全面戦争を覚悟した強硬路線を双方がとると、双方とも利益がゼロないしマイナスになる。なので戦争は常に限定的であり、どちらがリーダーになりうるかを知るための(必ずしも必要でない)プロセスとなる。双方が融和的なハト・ハト状況は、ナッシュ均衡ではない。というのは、片方がタカ戦略(=アグレッシブな外交方針)をとって利益を拡大しようという誘因があるからだ。ナッシュ均衡ではないにも関わらず、合計利益が最大となるハト・ハト状態を実現するには、国際的共同体など何らかのメカニズム、利益配分システム、違反者に対する懲罰システムが必要である。

これが標準的な授業内容だ。

が、一方が核保有国となり、他方が非核保有国である場合、双方が激突するタカ・タカ状態は、片方のみにとってマイナス利益となる。なので、タカ・タカ状況はありうるが、非核保有国は核保有国に従属する方が利益にかなうと最初から明らかであるので、戦わない。つまり非核保有国は核保有国の恫喝に屈する。であるので、核保有国と非核保有国の間に限定戦争が生じることはない。非核保有国が必ずフォロワーに、核保有国がリーダーになる。これが安定的なゲームの解となる。これまた教科書的なゲーム論のロジックから得られる結論である。

故に、朝鮮戦争がいまだ休戦状態で、かつ敵対する北朝鮮、韓国(更にアメリカも含め)の双方とも朝鮮半島全体の領有権を主張している状態を前提とすれば、北朝鮮が核保有国となった以上、韓国も必ず核保有国を目指すはずである。アメリカが支援国として核再配備をしなければ、自国で核開発を志向する。

もし韓国が核武装を進めれば、日本も必ず核武装を志向する。これが日本の利益にかなうロジックになる。なので、今後、(高い可能性として)核武装ドミノが進展すると予想しておくべきである。

■ ■ ■

もし韓国が自力で核開発するのではなく、アメリカが韓国で核再配備を行うとすれば・・・、韓国への攻撃をアメリカへの攻撃だとアメリカ本土のアメリカ人が考えるかどうか。この度合いによる。つまりアメリカがどんなコミットメントをするかによる。核配備は即ち「張子の虎」かもしれないのだ。実際に攻撃を受けた場合、報復を控えることがアメリカの利益にかなう可能性もあるのだ。その不確実性がある分だけ、配備されているとはいえ自衛力は割り引かれて評価される。まあ、いずれにせよ、日本、韓国の意志がそこで別々に働く限り、日本にも核が配備されるはずである。日本だけには核が配備されない状態は(日米韓の軍事資源が統一的・一体的に運用されでもしない限り)日本にとってヴァルネラブル(vulnerable)である。

ここまでは簡単なロジックで予想可能である。しかし、アメリカが日韓両国に核配備を進めパワーバランスを維持するというこの状態も決して安定的ではない。というのは、中国、ロシアはアメリカの影響下にある日本、韓国が核武装する事態を歓迎するはずがないからだ。相手に従属することの損失が受け入れ不能なほど大きい場合、タカ・ハトゲームにおいては常にタカを志向する。なので、アメリカが核配備をしてパワーバランスを維持しようとすれば、戦略的劣位に立つことを怖れる中国、ロシアは新たな対応をするはずである。また北朝鮮も更に核技術を磨いてより優位に立とうとするだけである。

この無限ループは、本来は不安定なハト・ハト状態(=平和共存戦略)から得られる利益について理解が共有されない限り、必然的に継続される。

タカ・ハトゲームにおいては、いずれかが服従するまでは強硬なコミットメントを相互に繰り出すが、これは理論的に予想される事態だ。経済制裁とは限定戦争の一手段なのである。制裁強化は、限定戦争の強化であり、管理に失敗すれば全面戦争へと至るリスクがある。これが現在最も懸念されている可能性だ。

■ ■ ■

戦略的ゲーム構造を変えない限り、関係国の選択を変えることはできない。

タカ・ハトゲームにおけるハト・ハト状態、つまり平和共存による利益配分がタカ戦略を単独で選ぶよりもはるかに大きいという確証を示す必要がある。

ゲームの構造をタカ・ハトゲームから同調ゲームへと転換することが望ましい。そうすれば、協調的核削減も将来いずれかの時点で可能になろう。

その方向に向けて、ありうる状態それぞれに関する利得を関係国が共有し、ゲームの完備性を確保することが大事だ。そうすれば、各国の理性的検討を通じて、合理的な解に到達する道筋が見えてくる。

■ ■ ■

こう考えると、北朝鮮が既に核保有国となったいま、東北アジア内の核バランスをめぐって複雑な進展が予想される。これだけは確実になった。

標題の「多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け」は、核バランスという主旨なのだが、一定の均衡状態に至るまでの道筋はかなりリスクに満ちたものになるに違いない。変化する情勢の中で自らがフォロワーの役回りを選択し、後手に回るのは愚かであり、得られる利益も薄い。かといって「自存自衛」などと叫んで暴走すれば味方が誰もいなくなる可能性が高い。これは元来た道である。

外務省である、な。今後の要所は。

それから憲法改正も非常に重要になってきた。憲法は統治の原則を示すものだ。感性が異なる外国人もロジックを語れば理解する。いくら現状が厳しいからといって、憲法どころではないなどと平気で言う人間集団がいるとすれば、信頼はされんわネ。あの国は怖いヨネと思われるわな。これまた誰でも分かる理屈だ。

2017年9月3日日曜日

「政治的な期待」に何かの意味があるのだろうか?

民進党の新代表に前原氏が(事前の下馬評通りに)当選したあと、代表代行職にライバルの枝野氏が、党運営の実務を担当する幹事長には山尾氏が任命される模様となり、にわかに民進党の新体制に対して「華がある」とか、「変貌をとげたようだ」とか、「そこはかとない期待感」があるとか、案外評判はいいようだ。

ここで一言疑問:

この「期待」というのは「予測」とはどの程度違うのだろうか?

たとえば通過したばかりの台風15号。日本列島へ接近する途上では太平洋岸にかなり近い進路をたどるという予報もあった。しかし、実際には予報よりかなり東寄りの進路をとり、小生が暮らす道央では風がちょっと強いかなという程度で終わった。何よりのことだ。近く予定しているリュニューアルを依頼しているリフォーム業者は『前から予定している地鎮祭が今日はあって、ホント、台風がそれてホッとしてるんですよ』と話していた。

台風の進路予測では中位予測の周りに可能性のある範囲が地図上に示されている。予測と言っても、点予測ではなく区間予測を行うのが予測実務では鉄則である。

できるだけ東側にそれてほしいというのは「期待」というより「希望」であって、客観的な計算結果とは別のことである。通常、希望が現実になってくれる確率は、事前の計算段階では極めて低いことも多いのだ。

それで、話は戻るのだが、民進党の新体制に「期待」がもてるというのは、かなり高い確率でイイ線をいくだろうと言おうとしているのか、相当イイ線にまで行く確率もゼロではないと思うんですよね、と。そう言いたいのか。政治評論というのは情緒的に過ぎて、小生にはサッパリ分かりません。

戦時中の大本営陸海軍部は、戦況が悪化してあからさまな嘘をつき始める前段階において、期待ばかりを高めるような情報伝達を繰り返していたことがよく知られている ー 国民の期待形成を重要視した点では、何やら近年の日銀が展開している"Forward-Looking"な金融政策にも似ていて、大本営と金融当局と両者の相似性には目を見張るくらいだ。そのキーワードである「期待」は上のように政治的な議論でもよく使われている。が、使い方が難しいのも「期待」という用語である。

「期待」を伝えたところで情報価値はほとんどゼロである。高い確率で予想される帰趨を伝えるのが、専門家、というか「情報通」としての存在価値であろう。

2017年9月1日金曜日

「学校教育」それ自体の効果は多分ゼロである

10年ほど前に所属先が経済学科からビジネススクールに変わった。移籍当初はテンションが上がったが、最近の口癖は『私が説明しているのは、決して勝利の方程式ではありませんから。知っているだけ、勉強しただけ。ゼロですからネ、自信があるだけマイナスかもしれません』である。



暴言・暴行で有名になった豊田真由子衆議院議員は東大法学部を卒業後に厚生労働省に入省しハーバード大学に留学した。

アイスノン、ホッカイロ、パラゾールで有名な白元は、創業者の孫が社長を継承した。その社長は慶大経済学部を卒業後、大手メガ銀行に入り、ハーバード大学ビジネススクールに留学した。しかし、白元はこのたび経営破綻した。

いずれも一流の学校でエリート教育を受けた。にも関わらずというべきか、失敗の酷さかげんが半端でない。

戦前期・日本の学校エリートも酷い終わり方をした。

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職業人生の成否と受けた学校教育とは関係はないものだ ー 全く関係がなく無相関かと言えば、相関はありそうだという印象はあるが、学校教育が成功を導いた主因であるという見方はウソであることにまず間違いはない。特に、学校時代の「成績」と仕事の「手腕」はまったく関係がない。これならば社会の合意が得られるだろう。

よく話すことだが『社会こそ最高の学校である』。ゲーテが「ウィルヘルム・マイスターの修行時代・遍歴時代」を書いた時代から全く同じだ。小生自身も振り返ると同感である。これからも変わらないだろう。

そもそも「学校教育」を重要視し過ぎれば「学閥」が形成される。閉鎖的な集団の中では低能力の人物が出世する機会を得て大きな間違いをおかす。また、学校時代の成績はあくまで個人の能力であり、社会で革新的事業を組織する能力とはほとんど無関係だ。この点は上に述べたとおり。この二つだけを挙げても、「学校」という機関に過大な期待を持つべきではないと分かる。本当に大事なのは「出会い」や「交流」。人との「出会い」や「交流」をうながす場を「学校」としてデザインする必然性はない。技術や知識の性質によっては学校は非効率であるとすら言える。ましてや国家が口を出すなどは、もともと出来る理屈もなく、失敗のもとである。

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それにしても安倍首相が提言してにわかに注目されている「大学の教育無償化」。大学の現状を見ないアホらしい構想だ。事情を知っている人ならば、人生の糧となる活動に対して広く経済的支援をする方向で考え直すべきだ、と。そう言うはずである。そもそも現在の日本の大学の半分以上は「大学」という呼称にはそぐわない。

文科省の大学行政は1990年代の金融行政と同じである。

つまり、大学無償化構想は公的資金による私立大学救済構想である。バブル崩壊後に最初に紛糾した問題である「住専への公的資金注入」と何も変わらない。後者は美しい言葉で飾ってはいなかったのでまだマシである。前者は「人づくり」であると。マスメディアはなぜ欺瞞であると批判しないのだろう・・・。ここが最も不可解である。