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犯人の残虐な行為には慄然とする。と同時に、その心理的必然性にも目を向けざるを得ない。そんな思いだ。
以前から感じていることが一つある。それは、「人は周りの人間集団から虐待されれば、人格性が毀損される」ということだ。人を虐待することは、人格が毀損された人間をつくり出していることと同じである。故に、人を虐待することのリターンは、人を虐待した社会にかえってくる。そういう理屈だ。それで収支のバランスがとれる。因果応報だ。小生はずっと前からそんな風に考えている。
『それでも実行した犯人は許せない』というのであれば、それは先日のアメフト悪質タックル事件を実行したM選手が許せないという見方と同じである。もちろん、こう考えても誤りではない。必要である。が、小生は(そして世間も?)見方が少し違う。そういう行為をM選手にさせた責任は指導者にあると考えるなら、人格を毀損するほどの虐待を少年期に行った社会が犯人に犯行を実行させたのであると考えなければ理路一貫しない。
極端なイジメは、極端な貧困 ― 貧困は社会から受けている虐待であると考えてはならないのだろうか ― と同じく、その渦中にある人間の人格を(統計的な意味で)毀損する。人格を毀損された人物は、意識の核心的部分に反社会性がうまれ、受けた虐待への応報を求める願望から弱者に対する攻撃意欲が代償行為として潜在する(これもまた統計的な意味で)、というのが小生の仮説である。
故に ― というより一般化していえばと言うべきだが ―、残虐な犯罪の相当部分は、犯人個人の責任というより、そんな犯人を生み出した社会のあり方の側に原因がある。小生はこういう見方を基本的にはとっている。
ズバリ言うと、性善説のほうに共感を覚えるのであり、犯罪への誘因や性癖、一線を超える動機などはすべて後天的なものである、と。そう思う。性悪説よりはずっとこちらの方に同感しているのだ。だからこそ、ずっと以前に悪人正機説についてメモを投稿しておいた。
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学校現場における<イジメ>は、学校関係者(及び、関係する保護者たち)がいま考えているよりははるかに甚大な被害を日本社会にもたらしている。
まして<イジメ>の発生を認識しながら、保身や事なかれを旨とする学校管理者が(そして保護者達も)事態を放置するとすれば、ガンの初期症状を認識しながら「大したことはない」と伝える医師にも似て、社会的には許容できないほどの無責任な姿勢である、と。小生はこう思うのだ、な。
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ハラスメントの認識とイジメの防止はかなりの部分で重なることは確かだ。一枚のガラスが割られた事件を放置すれば、校舎の窓ガラスがすべて割られてしまう荒廃に至るかもしれない。状況が制御不能になるかもしれない。
深刻なイジメになる前に、ハラスメントの段階で事態を管理し、深刻化を防ぐ必要がある。
ただ、極端なハラスメントの防止は、活発な交流、刺激のある会話、悪ふざけやお笑いまでも抑えつける可能性がある。モラルの追及が極端になれば、期待には反して社会の相互不信が進み、指導者の信頼性が低下するものである(これまた仮説的な見方、社会の特性の見方は全くキリがない)というのは、日本人なら既に何度も経験しているはずだ。
どこでバランスをとればいいか?学問領域でいえば社会学になるか。実証的研究の蓄積が望まれる。
【1日たってから加筆:5月31日】
改めて本稿を読み直すと結構過激である。カミさんに主旨を話してみると「そんなこと、外では言わない方がいいヨ、被害者がいちばん可哀そうなんだから」と言ってくれた。なるほどそうかもしれないと思った。持つべきものは人生のパートナーである。
極端なイジメを受けたからといって、人格が傷つけられたからと言って、誰もが反社会的な行動願望をもち、誰もが社会に対する報復を実行するわけではない。サマセット・モームの名作『人間の絆』の主人公であるフィリップ・ケアリーのように幼少年期から同級生による激しいイジメをうけながらも、結局は真摯で誠実な魂を失わない人物もいるだろう。
カミさんにはこう言った。
みんながみんな、イジメによって社会に報復するわけでもないし、犯罪行為を実行するわけではないさ。その後に出会う人によっても違うさ。でも、虐待された人は「覚えてろ」くらいのことはつぶやくのじゃないかねえ? そして、100人の中の5人でも、実際に胸の中の鬱屈を犯罪で晴らしてしまえば、やっぱり因果関係というのは認めざるをえないんじゃない?多感な学校時代に受けた心の傷は、30や40を過ぎてからまた血が出てきて、傷み始めることもあるんだよ。人間って、そんなんじゃない?