小学校の道徳が正規教科となってから色々な混乱が発生しているらしい。
たとえば著名な若手憲法学者である木村氏はこんな意見を述べている。組体操で上にいたクラスメートが動いたため人間ピラミッドが崩れそのために負傷者が出たあとの人間関係がテーマである:
一部の子どもがバランスを崩しただけで骨折者がでる、そんな危険な状況で練習をさせたのであれば、学校の安全配慮義務違反が認定される可能性は高い。民事上の問題として考えるなら、学校が損害賠償を請求されれば責任は免れ得ないだろう。出所: これは何かの冗談ですか?
また、刑事上の問題として考えるなら、注意義務違反によって骨折者が出ているのだから、教員は業務上過失致傷罪に問われてもおかしくない。
事故が起きれば、原因を追究し、責任者を特定する。責任者の行動が、不法行為や犯罪なら、損害賠償義務が発生し、刑罰が科される。どの国でも、法とはそういうものだ。
しかし、この教材は、「困難を乗り越え、組体操を成功させる」という学校内道徳の話に終始する。学校内道徳が、法規範の上位にあるのだ。いや、もっと正確に言えば、学校内道徳が絶対にして唯一の価値とされ、もはや法は眼中にない。法の支配が学校には及んでいないようだ。これは治外法権ではないのか。
URL:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47434
氏の意見は基本的に筋が通っていて理解できるものである。
しかしネエ・・・一面的でありすぎる面も否定できない。そんな印象を感じる。
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確かに「法治主義」は現代日本社会で守るべき貴重な価値であると、これは100パーセント賛成である。「法」というのは、成功や失敗、長い経験や学習の歴史を通して日本社会が(というより現代世界の多くの国が)習得してきた普遍性のある規範とも言えるからだ。
しかし、法が、というより憲法をはじめとする法規が、その社会の倫理的な価値を全て包含するというのは不可能だろうと思うのだ。もし規範的な価値がすべて法という形式に含まれうるものだと考えるなら、近年目に余る「法的には問題はないが許せない」という社会心理から展開されている「社会的制裁」は、論理的には一切不可であり、違法であり、故に社会的制裁が法的に制裁されるべきである、と。こういう理屈になるのではないかと思うのだな。
全ての規範は法規という形式をとるべきである。法という形をとらなければ人は自分の規範を他人に押し付けることは不可である。守るべきルールは全て法律という形をとるべきだ、と。本当にこのような社会を人々が望んでいるとは(小生個人の山勘ではあるが)どうしても思われないのだ。
だとすれば、その社会の規範意識の中で法が占めるのは部分的であるにすぎない、というよりそうあるべきだと人々が(ホンネでは)思っていると言うべきだろう。
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但し、こういうことは言えると思う。
すべて道徳教育というのは、究極的には『***べきである』、つまり独語でいえば"sollen"について教える教育である。
『なぜ人たるもの、かくするべきであるのか?』、ここを幼少期だけではなく、成人も含め全ての構成員が共有知として理解しておくことは、その社会が安定して機能していくうえで極めて重要である。
この「理解」は、ロジカルに、つまりは理性に訴えることで可能であると考えれば、カントの「実践理性」というものになるのだろうが、この考え方は19世紀から20世紀の歴史的経験を通して、概ね破綻したのではないだろうか。小生はそう思っている ― この点もまた微妙な点だとは思う。
とすれば、倫理的な規範をいかにして「規範」として理解し受け入れるか?この問題がやはり残る。もし規範が規範である根拠を「理性」に求めることができず、「法」に求めるとしても全てではないとすれば、あと残りは「共有された感情」くらいしか思いつかない。そして共有される感情というのは、典型的には「宗教感情の共有」として継承されていることが多い・・・。19世紀にアジアに進出したヨーロッパ諸国が「領事裁判権(治外法権)」にあれほど拘ったのは、相手国の文明的未成熟という点があったにせよ、それは非キリスト教国であるアジアとは心の深層部を占める宗教意識を、ひいては規範的価値を共有できないという認識があったのだと、こう言い換えても同じことだろう。
確かに宗教は規範の源たりうる。しかし、現代日本社会において公教育は宗教とは独立でなければならないと、日本国憲法がそう定めている。
では、「法」の中に包含しきれないような社会的規範があるとして、それは「法」ではない、「宗教」とも関係づけられない、しかし守るべきだと。そんな規範をいかにして理解させ、共有知にまで高めていけるのか?小生には分からない(マア、発案者の意図が想像できないでもないが)。まさかマスメディアやネットの投稿が正邪を決めるからというわけでもあるまいが、もしもその時の内閣、その時の文科省、あるいは国会(?)が「私たちが守るべきこと」を決めるというなら、まだむしろネットやメディアに決めてもらう方が好い社会かもしれない。いくら保守政権であれ授業の場で「大和魂」などと口にされるのは閉口だ。まだ「社会的制裁」のほうがましだろう、こちらも同じく閉口ではあるにしても。
どちらにしても、木村氏が「おかしい」と指摘しているように、規範の源を示すことなき道徳教育はお爺さんの語る寓話か、でなければ『挨拶とお辞儀はどちらを先にするべきか』という類の下らないマナー教室か、いずれかに堕落していくような、そんな未来がいまから窺えるような気がするのだ、な。
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